kanisan no awamitaini pukupuku.....pukupuku......omoide....omoide.......essay.........pukupuku........
・・・・ニューヨークの思い出・・エッセイ・・

5年間の駐在をとおしての思い出つづりです。
思い出した順に次々にじゅずつなぎのように書いていきたいと思います。
わたしの個人的な見方や考え方、思いつき順なので、事柄が前後したり、思い違いや記憶違い(情報が古いぞ!)
ということがあることはお許しください。

免停・・英語学習法・・ボランティア・・スカンク・・キャンプ・・ニンテンドウ・・男の子、女の子・・強制帰国・・
・・ミュージカル・・運命・・日本クラブ・・フォーチュンクッキー・・ピザ・・トースター事件・・カギ忘れ事件・・
・・ナース事件・・ウインカーはブリンカー・・ストップサイン・・3台の車・・四季・・クリスマス・・冠婚葬祭・・
・・早朝の面談・・しつけ・・褒め育て・・駄目出し・・「うるせ〜ばば〜」・・ニューヨーク生活便利帖・セピア色の町
現地校・・・・・・異国でがんばる駐在員・・背水の陣・・お引越し・・ずいぶんな不動産屋・・
・・反面教師・・アホちゃうか?・・鮭の気分・・ハグ・・「テンキ ワルイ アルネ」・・「かなしい?」・・べーグル
・・察してください・・誤解・・息抜き・・シナボン・・(9・11)貿易センタービル・・大地震・・郊外のミュージカル・・
・・・マンハッタンで歌舞伎・・・日米のニュース・・落ち葉は「くせもの」・・つづく
(上のキーワードをクリックするとそのコラムにとびます)
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 ラーチモント駅に近かったアパート。
5年にわたったニューヨーク生活は、思い返すと
なつかしく楽しいものばかりですが,
わたしの人生にとって、そして私たちファミリーにとって
とても大きな影響を与えてくれました。

ニューヨーク郊外のラーチモント(larchmont)
というところで過ごした初めての海外生活は、前半が
アパートでの暮らし、後半が一軒家の暮らしでした。

アパートには、コンシェルジュという受付のような
仕事をする人が24時間玄関ホールのカウンターの
ところに居て、来客や住人たちのこまごましたことに
対応してくれました。

4人が交代で勤務していましたが、英語がさっぱり
わからなかったわたしにはとても心強い味方でした。
 2     「免停」
ニューヨーク郊外で生活するには英語はもちろんですが、車も必需品です。
つまり、運転免許を持っているか持っていないかが大きな差となるのです。

日本で持っていなかった人は、(我が家でも夫は持っていませんでしたので
むこうで取りましたが)取らなくてはとても不便なのです。

幸いわたしは日本で持っていたので、夫が運転するようになるまでは
どこに行くにもアッシーでした。

初めての冬、生活にもだいぶ慣れて、家族でスキーに出掛けた帰りのことです。
つい下り坂でスピードを出して追い越し車線を走っていると、他の車がスローダウン
しはじめたと気付いた時にはすでに、パトカーがやってきていました。
 
警官は、スピード違反だねというので、わたしは素直にうなづいて
いました。一巻の終わり、このあとしばらくたいへんでした。

というのもニューヨークでは、日本で国際免許を取ってきても、
居住する場合はすみやかに州の免許をとらなくてはいけないので、
わたしもすぐにとりました。

州の免許は取って一年に満たないと初心者ということになります。
初心者のスピード違反は免許停止なのです。

罰金を払って済むものと思ったら大間違いで、そのあと3ヶ月くらいだったと
思いますがわたしは免停となりました。免停では、生活ができません。

こどもを学校に送り迎えするにも車、買い物にも車、どこに行くにも
車が無くてはどうしようもないのです。そこで、免停でもわたしは
毎日運転を続けていました。それには、訳があったのです。


 
前にも書いたようにアメリカでは車がなくては
生活ができません。そこで、免停でも運転できるという救済策があります。

免許証をくれる役所に出掛け、子供がいるから送迎にとか、学生なので
通学にとか、働いているので通勤にと、それぞれの事情を話して免停期間だけの
限定免許というものをもらうのです。

家から、どこそこまでは運転していいという限定です。
たぶん、免停になっても生活のために運転してしまう人がたくさんいて
こんな免許ができたのでしょう。アメリカらしさのひとつです。

ただ、限定免許をもらうために夫婦で何度か出かけ、とっても感じの悪い
窓口のおばちゃんにたどたどと英語で(日本語なら上手に言えるけど)言ってると
「next!」と取り合ってくれずに列の次の人に声をかけるのです。
 にもどる
自業自得ではありますが、限定免許を手に入れるまでいろんな人に相談したり
けっこうたいへんでした。
(子供をお友達に頼んで学校に送ってもらったり、歩いて買い物に行ったり)

それほど車が足として活躍する生活でしたから、車にまつわる話もたくさんあります。

ある日、同じアパートに住んでいた日本人の奥さんが朝起きて窓から外を見ると
駐車場にあるはずの車が消えていました。

そのアパートはルート95というハイウエイのすぐそばだったので盗んで逃げるのに
都合がいいらしく、よく盗難がありました。

うちの車は建物の中の駐車場だったのと盗まれやすい車種ではなかったので
大丈夫でした。

車を盗まれると言えば、こんな話もありました。
 
マンハッタンに向かうハイウエイの料金所近くで、少しゆっくり走っていると
窓からピストルで降りろと言われて、降りると男はその車に乗って走って
逃げていった。

別の話ですが、マンハッタンに車で出掛けた奥さんがいつもの駐車場に
預けようとすると入り口で、駐車場の人が今日は混んでるから離れたとこに
停めて来るといって車に乗って行った。

ちっとも帰って来ないので駐車場に入って行って受付で聞くと、そんなのは
知らない、騙されたんじゃないの?それでやっと、盗まれたと気付いたとか。

こんな話ばかりだと、やっぱしニューヨークは怖いとこだと思うかもしれませんが、
いい話もたくさんあるのです。


 7     「英語学習法」
マンハッタンのような都会とは違って、ラーチモントはのんびりしたところでした。
引っ越してすぐ近所を散歩していると、まったく知らない人がグッモーニン!とか
ハーイ!と声をかけてくれます。

青い鳥が飛んでいるし、緑もたくさん。関西人のように気さくな人々。
これで、英語がわかればなぁと思いました。

初めのころは英語を聞くと、まるでお経を聞いているようにさっぱりわかりませんでした。
でも、毎日英語だらけの中で暮らしていると必要に迫られて学習するものです。

特にわたしのように、おしゃべりが好きで人とコミュニケートしたいという関西人気質の
人間にとっては好奇心が何より学習の原動力でした。

わたしの英語の学習法は少し変わっていました。アメリカ人に英会話を習っていましたが
その他にテレビがとてもいい先生でした。
 
Regis Philbin and Kathie Lee Gifford

毎朝この二人のおもしろいモーニングショウを見ていました。
彼は、みのもんたさんが司会をするクイズ番組の
アメリカ版の司会者でも有名です。
毎朝お気に入りのモーニングショウ(リッジスというおじさんがメインキャスト)を見、
トークショウの番組ではゲスト同士がけんかし、怒鳴り合い、ピーという音がしょっちゅう
入るのを興味津々で見ながら、コマーシャルのたびにカタカナで書き取った
単語を英和で引くのです。

これだとその単語の印象がはっきり残るので忘れないし、時事的な単語も覚えられます。

会話は習うより慣れるのが一番でした。初めは通じないのはわたしの英語が
ダメだから・・・と自己反省ばかりしていましたが、そのうち賢いアメリカ人は
通じなければ、自分のほうがボキャブラリーが豊富なのだからと言い換えることが
できるとわかって、対応の仕方で相手(アメリカ人)の程度がわかるようになりました。
 
だから、日本で外国人と日本語で話すような時は相手に、例えば「扇」と言って
わからなければ扇を連呼しないで、「扇子」、それでもダメなら「三角で
こうすると風が気持ちいい」くらい言い換えて説明してあげるといいと思います。

知らない同士でも、目が合うとにっこりするのがアチラ流ということで、たいていの
日本人も日本人以外にはにっこりします。

ところが、おもしろいことに日本人同士では日本風に戻ります。

スーパーなどでもカートを押して通路を行くときに、アメリカのスーパーでは
対向車?ににっこりするのに、日本食のスーパーでは無表情でした。

日本食のスーパーと言えば、大きくて有名なヤオハンというのがありました。
日本流に作ったパン。日本流にスライスしたりカットされた肉。
日本の果物。日本的なあらゆるものがあり、通路を歩いているだけでも
ある意味癒される空間でした。
 10にもどる
日本的といえば、そのころマンハッタンに和菓子の
お店(TORAYA)ができよく食べに行きました。

マンハッタンには、紀伊国屋という大きな本屋さんも
ありました。有名なロックフェラーセンターの傍です。
スケート場がよくテレビで映されますがその横です。

本屋さんは、日本にいるころから好きでしたが英語
だらけの中にいると日本語だらけの本屋さんは、
手にとって見なくても通路を歩きながら背表紙に
書かれた文字を見ているだけでもこころがうきうき
してきました。

子供もここに来ると欲しい本をあれこれ見つけて
(と言ってもマンガがほとんど・・・)これは日本語の
勉強のためという大儀を前面に、買ってもらって
いました。

アメリカの現地校に行っていたので、親以上に
日本語に触れる機会が少なくなってしまうのは
否めません。言葉は両親が日本語を日常
話しているので、そんなに心配はないのですが、
文字は漢字を敬遠してしまうと取り返しが
つかなくなります。

 気候がいい間は食事ができますが、冬
 になるとスケート場になります。
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マンガは読ませないという家庭もありましたが、わたしは積極的にマンガを買い与えました。
マンガは子供が興味を持つ内容であり、その中で使われる漢字には読み仮名が
ふってあります。

わたしが、ピー音がたくさん入るトークショウで英語を覚えたように、こどもは
マンガで日本語を維持しました。変な親子ではあります。

こどもは月曜から金曜までは現地校に、土曜日は補習校に行っていました。
どちらの学校も時々バザーをやります。

現地校は選挙の会場になっていたので、選挙の日は、朝、家で作ったケーキを
ママたちが学校に届けます。それを投票に来た近隣の人に買ってもらって
学校に寄付するのです。

わたしもクラスマザーから聞いて、がんばって手作りのケーキを持って行きました。
係りのママに手渡すと「Thank you!」と受け取って、こどものクラスも
名前も聞いてはくれません。(テロなどが心配な今は違っているかもしれませんが)
 12     「ボランティア」
ボランティアとは言え、日本ではこんなときは必ず名簿があり、どのクラスのだれの
おかあさんがどんなものを持ってきたかを書き込むので、わたしはとまどいました。

あとでわかったのですが、ボランティアはできる人が、できる時に、できる事を
するのだという精神が徹底しているのです。

このすばらしい考え方は、わたしにとても大きな影響を与えました。

何かをするときには、自分が忘れてしまえる程度しかしない。それ以上の事を
すれば、ついあんなにしてあげたのにといった愚痴になってしまう。
そして、忘れてしまえる許容量をできるだけ大きくしていける努力をしようと。

ここが一番大事です。許容量は誰でもなく自分が知っているので、それを
大きくしていこうとすることは、まわりを気にして(あるいは、まわりにあわせて)
何かをするよりも自分ではもっとしんどいことではあります。

数年前から視覚障害者の方に朗読のボランティアをさせていただいていますが、
ニューヨークにいたときに得たこの考え方は、帰国してからもかわっていません。
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視覚障害者の方のことでも、アメリカの教育の仕方に感心したことが
ありました。こどもが小学4年生くらいだったと思いますが、
視覚障害者の方を学校に招いて体験学習をするというので
クラスから何人かお手伝いのママがボランティアで参加しました。

クラスマザーに声をかけてもらって、わたしも参加しました。
日本ならそういった授業はせいぜい、午前か午後の数時間でしょうが、
その学校は二日間をその授業に使いました。

危なくないように、ママたちがついているのですが、こどもたち全員に
順番にアイマスクをして杖をついて学校中を歩かせます。

お昼になれば、ランチをアイマスクをつけて食べるのです。
そうやって体験してこどもたちは身をもって障害者の方の気持ちを
理解しようとするのです。

体験の後、若い女性でしたが視覚障害者のかたを囲んでこどもたちから
いろいろな質問をします。こどもですから、辛らつな質問もあるのですが
彼女はひとつひとつにちゃんと答えていました
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今日本では、弱者に対しての教育ができていないために、思いやりの精神が
無くなりつつあります。一方アメリカでは、町でハンディキャップの人たちや妊婦の人、
老人に対してさりげなくヘルプができる雰囲気があります。

小さい時の教育が大人になってからの、他人に対しての思いやりになるのです。
勉強も、もちろんたいせつですが、こういった精神的な教育も
忘れずにして欲しいなぁと思います。

クラスマザーというのは一年間、クラスでの色々な行事の際のお手伝いをしたり
先生とのパイプ役になったりする、どちらかというとしっかりした方が多かったと思います。

学校が休校になったりディレイと言って、始業時間が遅れたりという連絡も
クラスマザーが電話で伝えてくれました。
 15にもどる     「スカンク」
ニューヨークでは、冬になると雪のために車が動かなかったり、雪かきが
終わってからでないと動けなかったりするので、送迎のママたち(少なくとも
わたし)は前の晩、すごい雪だったりすると、この電話を期待します。

ニューヨークは、冬になると雪が降るだけでなくものすごく温度も下がります。
ですから暖房をしていない部屋は無くて、トイレもあったかでした。
そんなさむ〜い冬にも、庭のリスは元気に走り回っていました。

リスだけでなく、ニューヨークではラクーン(あらいぐま)やスカンクも
います。スカンクはびっくりするとスプレーといって独特の匂いを発射するので
車を運転していても、「わ〜ォ、スカンキー(スカンク臭い)」と誰かが言うとどこからか
あの匂いがただよってきたりしました。
 暑くても寒くても年中元気だったリス。
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アパートに住んでいた頃、一階に住んでいた日本人一家のクローゼットに
入り込んだスカンクがスプレーしたということがあり、たいへんでした。

当時飼われていた、かわいいトイプードルには被害がなかったのが
不幸中の幸いでした。

というのも、庭で遊んでいた犬がスプレーされてたいへんだという話は
めづらしくないからです。そして、その匂いをとるためにはトマトジュースで
洗うのが一番だとか。

だから、スーパーで大量にトマトジュースを買う人は車や(轢いちゃうこともあります)
犬のスカンキ〜な匂いをとろうとしているのです。

わたしも、レジで前に並んでいる人がトマトジュースをたくさん持っていたので
聞いてみたら、やっぱり犬を洗うんだと言っていました。
 17     「キャンプ」
郊外と言っても、マンハッタンから車で一時間もかからないところでしたが
けっこう野生の動物はいました。夏の朝早くに庭の芝生に水をやっていたら

すぐ近くの道を鹿が横切って行くのを見かけたことも一度だけですがあります。
初夏には、ファイアーバグといったり、ファイアードラゴンというのですが
ホタルが飛びます。

ほわり、ほわりと庭にホタルが飛ぶのを見ると
なんともいえず心もほわりとなりました。

そして、その頃になると夏休みがはじまります。
夏休みは6月からです。こどもたちは夏休みになるとサマーキャンプに参加します。

まだ小さいこどもはデイキャンプといって、日帰りのキャンプに参加し、
大きくなると泊りがけのキャンプに参加します。
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キャンプもピンからキリまであり、費用もいろいろです。
とっても、リーズナブルなのもありますが、「設備もよくてランチにはコックが
作った暖かいものを提供します」というのなどはかなり高額です。

行ってすぐに夏休みだったので、我が家のこどもは近くにあった
バジャーという名前のキャンプに参加しました。

行ったばかりで初めてだったこともあり、アパートまでバスで送迎してくれて
ランチはホットランチ、設備もバッチリというキャンプでした。

まず、持って行くものとしてベージングスーツとか書いてあります。
なにそれ?って感じでしたが、水着のことでした。

わたしの英語オンチは、数えればきりがなく赤面したり、笑ったり
困ったり百面相の毎日でした。
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グループ分けされたこども7・8人に3人ほど大学生(だったと思います)の
世話係がつきます。日本でスイミングスクールに行かせていたときに
若いコーチがいたので、初め、わたしは彼らを「コーチ!」と呼んで
いましたが、それはまちがいで「カウンセラー」が正解です。

バジャーではさまざまなことを体験させてくれます。
大きなプールがあり、水泳はもちろん(飛び込みもできます)野球
バスケット、サッカーその他屋外でのたくさんのスポーツ、

室内でのいろいろな物づくりや、遊び、ゲーム、雨の日はボーリング場へ
お昼はコックさんが作るできたてのピッツアやパスタにサラダやデザートまで
つくという至れり尽くせりの一日です。

まったく英語がわからなくても、楽しいことばかりだったので最初の年であったにも
かかわらず、4週間申し込んであった期間をこどもから延長してほしいと言われて
結局あと2週間、もう2週間と夏休み中通いました。
 20にもどる     「ニンテンドウ」
これは、こどもにとっても親にとってもとてもうれしいことでした。
ものごとは、楽しいことから入れば案外うまくいくからです。

この間に、さらにうれしいことがありました。こどもの入っていたグループは
日本人が彼一人だったために、溶け込むのがたやすかったのですが
(日本人は、こどもであっても日本人同士でかたまってしまう傾向があります)
グループの中の一人が、一緒に遊びたいと言ってくれて家に招いてくれました。

そして、我が家にも来てもらいました。見ていると、言葉は通じないのに
仲良く遊んでいます。それには、たいへん強い味方があったのです

今もこどもたちにとって、ゲームはなくてはならない遊び道具のひとつですが
その頃は、日本で作られたテレビゲームがアメリカにも普及し皆が
夢中になっていました。

そして、息子はゲームが大好きで(今はしなくなりましたが、その頃は
わたしもゲームが大好きで最初のゼルダの伝説は裏ゼルダの最後面まで
行ったとか、シムシティでは銅像が立ったとか、テレビゲームでも
ゲームボーイでもテトリスは最後面まで行きました・・・ちょっと自慢)
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その頃は、テレビゲームのことをアメリカ人はニンテンドウと呼び、こどもたちは
日本で作られたということでちょっぴり鼻が高かったのです。

ニンテンドウがあったお陰で、そのあと息子はかなりたくさんのアメリカ人の友人が
できました。わたしは、自分がゲームを好きだったのでこどもにも甘かったように思います。
まんが本と同じように、ゲームも功罪相償うといったところでしょうか。

8週間が終わる頃には顔見知りになったおともだちがたくさんでき、カウンセラーにも
子供の性格が良く理解してもらえて、ほんとうにかわいがってもらったのですが
実は、行き始めてすぐの頃様子を見に行ったわたしは、わたしが見に来ていることを
知らずに、カウンセラー同士が「ジャップ・・・・・」と言っているのを耳にしました。

英語がわからないこどものことを言っているのだと、悲しい気持ちになりましたが
わたしはこのことは、わたしの聞き間違いと思って前向きなこどもの様子を
信じて、夏休みを過ごしました。すると、カウンセラーたちはがんばりやの息子に
毎日接していくうちに、すっかり変わりました。

わたしたちだって、新参者やよそものにはよそよそしいことがあります。
でも、そういった人たちの素直な気持ちや心からの笑顔に、いつのまにか
親しみを覚え、親身になっていくのです。アメリカ人だって同じことでした。
 22     「男の子、女の子」
こどもたちは大きくなると、キャンプに来る小さな子どもたちの世話をする
アルバイトをして夏休みを過ごすようにになります。同年代だけでなく、
たての関係で接する人がいるというのはとてもいいことだと思いました。

夏休みが終わると新学期。あちこちで back to school sale が
始まります。バックパックといって背中に背負う学用品入れのリュックや
学用品、洋服などが売られます。女の子も男の子も、テレビのヒーロー
などがついたものを好んで買っていました。

バックパックは日本のランドセルのように頑丈な物ではないので、
我が家でもよく買い換えました。そのころのお気に入りは、
亀がヒーローのニンジャタートルでした。

この頃感じたことに、男の子の遊び方と女の子の遊び方の違いでした。
男の子は体を使って遊ぶことが多く、女の子は言葉を使って
遊ぶことが多いということです。

そのせいか、男の子は女の子に比べて溶け込むのが早いように思いました。
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サッカーにしても他の球技にしてもゲームにしても、言葉より体の動きで伝え合うことが
できやすいのですが、女の子の遊びは、人形を使ってもままごとであってもなにかにつけて
体より言葉を使っての遊びが多いのです。

そのせいか、男の子に比べて女の子は言葉がわからないために
遊びについていけないのではないかと思いました。

ただ、はじめは男の子の方が早く馴染むようでも、付き合いが長くなると女の子の
ほうが強い結びつきの友人を得るようにも思いました。

こどもが学校に馴染み、生活が順調になってくると奥さん連中は習い事を
始めます。わたしもご多分に漏れずいろんなことをしました。

英会話はもちろんのこと、テニス、ゴルフ(これは、いまいち性に合わずすぐやめました)
シャドウボックス、中華料理。わたしは、少ない方でしたがもっと意欲的にいろいろ
やっている方が多かったです。
 24     「強制帰国」
習っている分には問題なく、またレッスン代をとらずに教えているのも大丈夫ですが
何かをしてお金を稼ぐということは、一般的な駐在員の奥さんには許されていません。

わたしの友人がある習い事をしていましたが、その先生は駐在員の奥さんでした。
そして、毎回レッスンの時にたくさんの車が近所に駐車していたので、
かなり迷惑だったらしいことも災いしてアメリカ人の隣人に通報されて、
教室を開いていたことが当局にわかってしまい、急遽その教室は閉鎖されたそうです。

ご主人ともども、強制帰国になったという話です。こうなると、会社にも迷惑が
かかってしまいます。今は、また違うのかもしれませんが、あの頃はそうでした。

会社といえば、マンハッタンでパーティーがあるときにお料理を作って車で持って行き
お手伝いをするということが何度かありました。

最初は、マンハッタンに車で行く練習を夫が帰宅してから何度もして、やっとひとりで
行けるようになったのですが、わたしはさんざん夫に文句を言ったものです。

でも、そのお陰でマンハッタンまで平気で行けるようになったのですから
今から思えば、ほんとうにありがたいことだったのです。
 25にもどる     「ミュージカル」
マンハッタンには、買い物にもミュージカルにも車で行く方が楽です。
ミュージカルなど、こどもを乗せて夫が仕事を終える時間に合わせて
マンハッタンまで行き、ミュージカルを見て帰る頃には
こどもは眠くなります。

それからグランドセントラルステーション(グラセンと略して言うのは
日本人だけです。アメリカ人には通じません)まで行き、
電車に乗って帰るのに比べて車なら乗れば、こどもは家まで
寝て帰ることができます。親も子も楽でした。

最初は、マンハッタンの上司宅でのパーティーにお料理を作り、
車を運転して行かなくてはいけないということに困惑したのに、
それがなければこんなに楽にマンハッタンに行けるようには
ならなかったと、その後何度感謝したかわかりません。

夫のためと思って、文句たらたらやっていたことが
結局自分のためになって返ってきたのでした。
(お友達をのっけて、マンハッタンにでかけることも
できるようになり、チャイナタウンへ行ったりもしました)
Cats
 Les Miserables
 The Phantom of the
 Opera
 Beauty and the Beast
 Annie Get Your Gun
 Show Boat
 Crazy for You
 Miss Saigon
 The secret garden
 Fiddler on the Roof
 City of Angels
 他にもたくさん見ました
 26     「運命」
ミュージカルの他に、ボストン交響楽団もカーネギーホールの年間席をとって
聞きに行きました。 これは、たいした金額ではありません。カーネギーホールの席も
ピンキリでわたしたちの席は、階段をだいぶあがったところでしたから。

ミュージカルにしても何にしても、ニューヨークは日本と違って文化的なものも
案外安く手に入れることができます。

わたしは赤ちゃんの時に、父親がクラッシックを子守唄に聞かせてくれたそうで、
お陰で聞き始めるとねむーーくなってしまいます。そんなわたしも、
小沢さんの「運命」を聞いて驚きました。

それまでは、「運命」といえばジャジャジャジャーンと暗く重くまさに運命というような
イメージがありました。でも、小沢さんのは違っていました。

明るく軽やかに、むしろはずむような「運命」でした。
カーネギーホールのほかに、夏にはタングルウッドにも車で聞きに出かけて行きました。
けっこう遠いのですが ドライブも楽しかったです。

そういえば、タングルウッドの近くで小沢さんが誰かを助けたとかってことが
あったみたいですね。ヨーロッパでも、小沢さんは大人気のようです。
活躍を期待したいと思います。
 27     「日本クラブ」
カーネギーホールのすぐ近くには「日本クラブ」がありました。
カーネギーホールに行く前は、ここでよく夕飯を食べました。とてもおいしい
きちんとした和食をいただくことができます。でも、お値段は日本だったら
とてもこんな安くは食べられないという感じでした。

ニューヨークは食材も豊富に手に入るので、日本食のお店では旬の物や
新鮮なものをけっこう安く口にすることができました。おすしなどは
日本に負けないくらい、おいしいものを食べることができました。

家の近くでは、エビスという日本食のお店によく行きました。カウンターに
座って、板前のおにいさんたちと話をしたりして。
あなごのにぎりや、たこ酢がおいしかった・・・こどもは、お兄さんと仲良くなって
マンガ本を貸してもらったりしたこともありました。
 28     「フォーチュンクッキー」
和食だけでなく、いろいろ外食をしました。
中華はフナンというお店によく行ったなぁ。中華は、さいごに
フォーチュンクッキーという中身のない餃子のような形の
クッキーというより、固めの炭酸せんべいの中に、ちょっとした
英語の文が書かれた紙が入っています。

けっこううれしいことが書いてあったりしたように思います。
わたしのお財布の中には、今もフナンで最後に食べたときの
ものが入っています。
“Your love life will be happy and harmonious”