日英同盟


 日清戦争によって清国が日本に敗れ、「眠れる獅子」ではないことを知った欧米列強は、相次いで中国分割をおこなった。租借地・鉄道敷設権・鉱山採掘権などの権利を獲得し、それぞれの勢力を拡大していった。
 イギリスは、揚子江流域・香港・九龍半島・山東半島北岸の威海衛。フランスは、雲南方面・広州湾。ドイツは、膠州湾・青島。ロシアは、満州(中国東北部)・旅順・大連。日本は、朝鮮半島・台湾・。特に南下政策を中東から極東へ政策転換したロシアの中国への野心は露骨であった。
 日本は、ロシア、フランス、ドイツによる三国干渉で遼東半島を返還させられ、ロシアの野心が朝鮮半島へ及ぶのを心配していた。しかし日本単独でロシアと事を構えるのはあまりにも無謀であった。そこで日本はイギリスと日英同盟を結ぶことを考えていた。しかし、近代化して間もない国を相手に「光栄ある孤立」と呼ばれる政策をとるイギリスが同盟を結ぶなど不可能に近かった。しかし日本にとって幸運な事にイギリスも極東でロシアの南下を食い止めてくれる相手を探していたことである。
                     
 このイギリスの政策転換には、ヨーロッパの情勢が挙げられる。当時のヨーロッパは、三国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア)と露仏同盟とが対立し、イギリスが「光栄ある孤立」と呼ばれる非同盟主義の政策をとっていた。しかし、三国同盟がロシアの目をバルカン半島から目をそらさすためロシアの極東への南下政策を支持したのである。これに対して危機を感じたのがインド・中国に利権を持つイギリスと中国での利権を狙うアメリカであった。
 明治政府はこのイギリスの動きを知ると、伊藤博文などの日露協商派もいたが、明治政府は日英同盟を結ぶ方が日本にとって利益が大きいと判断し動き始めた。初め日本単独では難しいと判断したイギリスは、ドイツも加わえた日独英同盟ならとの条件で交渉してきたが、ドイツが抜けた後も交渉は打ち切られなかった。だが明治政府の意思に反して「日露協商」を結ぶべき伊藤博文がロシアを訪問してしまったのである。これには明治政府も困惑してしまった。しかし、伊藤博文にとって皮肉にもこの彼の行動が日英同盟締結へのスピードを加速させたのである。「日本は日露協商に政策を転換するのでは?」とイギリスが危惧したからである。
 こうした事情の下に1902年1月30日、日英同盟は日本にとって有利なかたちで結ばれた。日本が初めて結んだ平等な条約でもあった。

 「日英同盟」の内容を簡単にまとめると、
・清国・朝鮮の独立と中領土保全を認め合うこと
・清国における両国の利益と朝鮮における日本の利益を承認すること
・一方の国が第三国と交戦した場合、もう一方の国は中立を守り、さらに第三国が相手側として参戦した場合は、日英が共同して戦う。
となっていた。

                         

 この後、1904年に、日露戦争が開始すると日英同盟に基づいてイギリスは日本にとって大きな役割を果たすことにになった。その働きは、
・イギリスは世界一の情報機関をもつので、イギリスから提供された情報は軍事・外交で大きな力となった
・世界一のメディアをもつイギリスが日本の勝利を世界中に報道すると共にロシアの連敗も大きく報道したたので、日本にとって国際世論や外積募集が有利になった。
・ロシアが極東に大兵力を集中したため、一カ国で三国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア)を相手にしなければならなくなったフランスに対し、さらにイギリスが圧力をかけたため露仏同盟が有効に働かなかった。
・世界一良質な英国炭を日本に独占的に販売しロシアに対して売らなかった。英国炭を使用すると、黒い煙を出さないため敵艦に発見されにくく、燃費もいいため軍艦のもつ戦闘力を有効に発揮できた。
・イギリスがフランスに圧力をかけたため、バロチック艦隊はイギリスの港はもちろんフランスの良港すら入れず、船の修理・整備ができないまま日本海海戦に入り軍艦がもつ戦闘力を完全に発揮できなかった。

 日露戦争終結後、第一次世界大戦が勃発すると、日本はこの条約に基づきイギリスが加盟する三国協商の側に立って参戦した。しかし第一次世界大戦後のワシントン会議で、1922年に四国条約(アメリカ・イギリス・日本・フランス)が締結されたことにより、日英同盟は不要なものとして破棄された。

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