旅順要塞の攻略

 当初の陸軍の計画では、停泊中のロシア艦隊は海軍に任せるとしても、旅順港の背後にある丘陵の各地に要塞を築き防備を固めこもっている旅順要塞の守備隊が要塞を抜け出し背後から日本陸軍を攻撃しないか大いに懸念されっていた。しかし、海軍が大陸に軍や物資を輸送するための制海権の確保や本国からのバルチック艦隊とロシア太平洋艦隊(旅順港に停泊)の合流を阻止するため旅順港封鎖を試みたが失敗。そのため、陸軍によって旅順要塞を攻略し、陸上からロシア太平洋艦隊を砲撃する作戦が考案された。大本営は、5月31日新たに第3軍を新たに編成し司令官を乃木希典大将とし旅順要塞攻略を指示した。

                    

第1回総攻撃(1904年8月19日〜24日)
 第3軍は、8月19日午前6時、砲兵部隊をもって攻撃準備射撃を開始。砲撃は8月20日も続けられ、21日に歩兵部隊による総突撃を開始した。 しかし、十分に砲撃したはずのロシア軍堡塁はほとんど健在で、突撃する日本軍は、ロシア軍の火力にさらされ、将兵は次々と倒れていった。 連続6昼夜にわたる突撃は15,800名の死傷者を出し、24日午後4時攻撃中止した。 この攻撃の戦果は、第9師団がわずかに東西盤竜山堡塁を奪取したにすぎなかった。
第2回総攻撃(1904年9月19日〜9月22日)
 そこで第3軍は、敵陣近くまで塹壕を掘り、28サンチ砲を内地から運搬し、9月1日から攻撃準備に着手した。 この時、海軍から「西北正面の203高地を占領してほしい」との要請が来ていた。 標高203メートルのこの高地は旅順港を一望できる要地であった。しかも、まだロシア側もこの高地の重要性に気がついておらず防備か不十分であった。 ここを観測点とし順港内のロシア太平洋艦隊に砲撃を加えれば全滅させることができ、海軍の旅順要塞攻略の目的は達成されるのである。 しかし、3軍は203高地を攻略しても旅順要塞の陥落につながらない為これを拒み、要塞を陥落を主とした作戦を譲らなかった。攻撃陣地を進める間、ロシア軍がしばしば出撃があり、攻撃準備がなかなか進まなかったが、9月19日には攻撃を開始した。だが、これらの攻撃も、22日に至って、わずか3ヶ所を得たのみで攻撃が行き詰まった。海軍が要望した203高地方面には兵力の一部を割いただけであった。しかも、これがロシア側に203高地の重要性を気がつけさせることになり、すぐさま堅固な要塞が施され、以後203高地の攻略は困難になっってしまった。日本は兵力の小出しという軍の運用として一番やってはならないことをやってしてしまったのである。10月26日、第2回総攻撃を開始したが、11月1日までに、あまり戦果があがらず攻撃は停滞した。第2回総攻撃では、3,830名の戦死者を出すことになった。
 しかしこの第2回総攻撃を総攻撃ととらずに、本格的要塞への攻略準備の為に、本格的要塞の前に設けられている比較的攻略が容易な要塞を抜く作戦である「前進保塁群攻撃」と考えれば目的とした要塞のほとんどを攻略したので、まずまずの成功と言えよう。

                         

第3回総攻撃(1904年11月23日〜11月27日)
 11月23日乃木大将は第三回総攻撃を命じた。攻撃目標は変わらないが、これまでの総攻撃と違う点は特別予備隊が編成されたことである。約3,000人の要塞奇襲部隊で、全員が白襷をかけていたので「白襷隊」と呼ばれた。11月26日午前8時、28センチ砲を中心に重砲隊が射撃を開始。午後になって歩兵部隊の突撃が行われた。しかし、いずれの要塞においても日本軍は攻めあぐねロシア軍要塞を抜くことができなかった。そして、午後5時に乃木大将は白襷隊の出撃を命じた。暗夜に決死の奇襲を行ったがロシアの集中攻撃に受け全滅。27日午前2時30分に白襷隊の攻撃中止命令が出された。11月26日から27日未明にかけての第3回総攻撃では約4,500名の死傷者を出し失敗した。
                           
203高地攻略(11月27日〜12月5日)
 27日午前10時、乃木大将は重大な命令を下した。攻撃目標をこれまでの旅順要塞から203高地へと変更したのである。まず28センチ砲が3ヶ所から砲撃を開始。午後6時30分頃から第1師団が203高地の山頂を目指し突撃を開始。しかしロシア軍も奮戦し、翌28日も山頂を日本軍とロシア軍が奪ったり奪われたりし激戦をくりひろげた。しかし28日夜となるとロシア軍が新手の大部隊を投入したため日本軍は山麓に追い返されてしまった。しかし日本軍もすかさず予備隊の第7師団を投入を命じた。第7師団は29日突撃準備と共に砲撃を開始。30日に突撃が開始され11月31日夜には203高地の占領に成功するが、12月1日未明にはロシア軍に奪回されてしまった。この日、児玉大将は大連駅に到着した。 すぐに第3軍司令部に向かった児玉大将は乃木大将と会見、第3軍に対し児玉は怒声と強引な指導で203高地奪取作戦が練り直させた。なお、この日、乃木大将の次男保典(やすすけ)が戦死している。児玉は、まずの高崎山(標高1,200メートル)から203高地周辺部にある諸砲台を看破。そして直ちに重砲兵部隊を高崎山に移動させた。 12月5日午前8時15分頃、28センチ榴弾砲をはじめとする重砲兵部隊がロシア軍の主要砲台を砲撃。約1時間後の9時10分、歩兵部隊が突撃を開始。ロシア軍の反撃もすさまじかったが、夕方になり日本軍が西南山頂・東北山頂を占領するとロシア軍の逆襲が止まり日本軍は完全に203高地を占領した。翌6日には203高地山頂に観測所が設けられ旅順港内のロシア艦隊に対して砲撃が開始された。
 203高地が主要目標となった第3回総攻撃では戦死4,958名、負傷者11,584名を出した。この第3回総攻撃全体では日本軍は16,935名の死傷者を出した。
                              

旅順要塞降伏(12月7日〜1月1日)
 203高地が占領されると、28センチ砲をもって旅順港内の軍艦や港湾施設に砲撃を開始し旅順艦隊を全滅させた。 乃木大将は今度こそ旅順要塞を陥落させるべく正攻法で臨んだ。工兵が坑道を掘って爆薬を仕掛けて保塁を爆破するのである。12月18日午後2時15分に計2,250キロの爆薬に、いっせいに点火し東鶏冠山北堡塁を爆破。歩兵部隊が突撃し8時間後に完全占領した。この東鶏冠山堡塁の占領が大きな転機となり、第3軍は東鶏冠山北堡塁と同じ方法で28日に二竜山堡塁が、30日には松樹山堡塁を陥落させた。31日夜半から翌1905年1月1日にかけて、東北正面の本要塞として残った望台(185高地)一帯の高地を占領した。 そして、午前3時30分頃旅順要塞司令官ステッセルは軍司令部屋上に白旗を掲げ降伏の意図を伝えた。日本軍は、782名の戦死者と3,000名を越す負傷者を出し旅順要塞の攻略をついに成功させたのである。

この旅順要塞攻略には後方関係を含め、延べ約13万人が参加し戦死者15,390名、戦傷者43,914名、計59,304名もの犠牲を出す悲劇的な戦いであった。

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