ロシア軍は、1905年1月上旬、ミシチェンコ騎兵挺進隊を営口方面に南下させ、1月下旬大部隊をもって日本軍の弱点である左翼を攻撃してきた。 攻撃の指揮をとったのは、新着任グリッペンベルグ大将のロシア第2軍約10万であった。1月25日、ロシア第2軍は、黒溝台に殺到した。 日本の司令部は、直ちに第8師団(師団長:立見中将)にロシア軍の撃退を命じた。 第8師団は、26日、黒溝台に向かって攻撃を開始したが、次第に兵力を増強しいくロシア軍に、窮地に陥る危険が生じた。 日本の司令部は、27日から兵力を増援して、「臨時立見軍」を編成したが苦戦した。この時、第1軍・第4軍の正面にいたクロパトキン軍が活発に攻撃をしかけてきていたら日本軍は、確実に壊滅していたと考えられるが、不可解にもクロパトキン軍の攻撃は不活発であった。29日、臨時立見軍が奮戦し約2倍のロシア軍を撃退した。この会戦は、日本軍にとって戦争間最大の危機であった。

この会戦でのクロパトキンの不可解な行動には、名誉挽回のために日本軍に対して決定的な勝利を収めるのには、もちろん依存はないが、それはあくまでもクロパトキン自らによるものでなければならない。」というクロパトキンの官僚的な思考が働いた事が考えられる。何故ならば、クロパトキン以外の者よっておこなわれる事があれば、皇帝からの信頼はなくなるどころか、今までのロシア軍の連敗の原因は自分の無能さにあるとを示しす事になり軍や宮廷から追われからである。そこまでロシアの軍は官僚化し腐りきっていたのである。この会戦の後、グリッペンベルグはクロパトキンに激怒し本国に帰ってしまったといわれる。クロパトキンにとっては日本軍には敗れたが権力争いには勝った会戦になった。