当時奉天付近に集結していたロシア軍は約32万で圧倒的に優勢であった。 そこでロシア軍は、今回も日本軍の左翼を包囲する作戦を立案した。(日本軍の右翼は、地形上大部隊の運用に不適だったため) クロパトキン大将は、決戦の内意を固めた。 しかし、この作戦は、日本軍の先制攻撃によって初動に砕け、攻撃を断念して防勢に転移してしまった。
会戦第1期(1905年2月26日〜2月28日)
2月27日、日本軍は右翼からはロシア軍を攻撃したが、両軍の奮戦で攻撃は進展を見なかった。左翼の乃木将軍率いる第3軍は、2月27日朝前進開始、28日夕方までに黒溝台西北西の後辺外から珍子崗(ちんしこう)の線に進出した。 この間、砲撃戦をおこなって企図の秘匿に努めた。ロシア第2軍は、日本軍の左翼に対し攻撃に出ようとしたが、27日にはまだ第3軍が清河城方面に迂回しているものと誤認し攻勢を中止してしまった。 28日になって、黒溝台方面から奉天西方に出現した日本軍が第3軍であろうと判断し、これを撃退するため予備軍を奉天付近に集結した。

会戦第2期(1905年3月1日〜3月7日)
日本軍は、1905年年3月1日から本格的な攻撃に転じた。右翼は依然攻撃を続行したが、地形の峻険とロシア軍の奮戦より進展はなかった。乃木大将率いる第3軍は、3月1日以来北進を続け、ロシア軍はこの間、第3軍の包囲行動を阻止すべく反撃を試みたが、左翼方面の日本軍の猛攻に対しても増援部隊を送る兵力が分散という日本軍の作戦に上手くクロパトキン引っかかったため、第3軍に対する反撃は不徹底に終わったが乃木大将率いる第3軍の状況は旅順に続いてまたもや悲惨であった。それでも3月7日、右翼近くに第3軍の進出したため、クロパトキンはついにこの日退却を決心した。
会戦第3期(1905年3月8日〜3月10日)
満州軍総司令部は、3月8日、ロシア軍が退却に移ったことを知り、全軍に追撃命令を下した。3月8日、各軍は当面のロシア軍に攻撃を開始、退却するロシア軍を攻撃した。 3月10日には攻撃が遅滞していた各軍も奉天に迫った。 そして、日本軍は、3月10日夜に入ってロシア軍を完全に破り、ついに奉天を占領した。