日本海海戦(1905年5月27〜28日)

 世界最強と言われたバルチック艦隊をもってロジェストウェンスキー少将(航海中に中将に昇進)を司令長官とする「太平洋第2艦隊」を編成し、1904年10月15日、リバウ港を出発、極東に向かわせた。目的は、旅順港内に停泊する太平洋艦隊と合流(日本海軍の2倍の戦力になる)し日本海軍を壊滅させ制海権を確保し、日本の輸送を不可能にし満州にいる日本陸軍軍を干上がらさせたところに決戦を挑み最終的な勝利をおさめることであった。しかし、途中旅順が陥落し太平洋艦隊が全滅したので、急遽「太平洋第3艦隊」が編成・増派されることになり、1905年2月15日にリバウ港を出発、5月上旬カムラン湾において先行の太平洋第2艦隊に合流した。両艦隊を合わせた勢力は、戦艦8(新型戦艦5隻を含む)、装甲巡洋艦3、装甲海防艦3を基幹とする50隻であたが合流した太平洋第3艦隊は旧式艦で砲の数こそ増えるが、艦隊の速度は一番遅いのに合わせなければならないので逆に足手まといになったが、50隻にも及ぶ艦隊の姿は圧巻でありシンガポールを通過した時に、これを見たシンガポールの日本人は祖国が亡びると涙するものもいたらしい。両艦隊は5月14日カムラン湾を出発、旅順が陥落したため目的をウラジオストックを拠点として日本の輸送船破壊と制海権確保に作戦を変更し一路ウラジオストックを目指した。

                                                 

 一方、1904年12月上旬以来、旅順監視の任から解放されていた日本海軍の聯合艦隊は、修理・訓練・哨戒等を着々と進めていた。1905年年5月27日早朝、哨艦信濃丸からの「敵艦見ユ」の報告に、全艦出動した。ロシア艦隊が目標とするのはウラジオストックと分かっていたが、日本海の対馬海峡経由なのか太平洋側の津軽海峡経由なのかは判断できない状況であった。
 しかし、東郷平八郎聯合艦隊司令長官は、断固として対馬海峡で迎撃する態勢をとった。聯合艦隊とロシア艦隊とは、戦力は戦艦が、日本4隻に対して、ロシアは新式が7隻、旧式4隻とはるかに優勢であったが、日本は速力に勝る装甲巡洋艦をもって不利を補っていた。また、作戦の難易度が違かった。ロシア側は、1隻でも多く無事にウラジオストックに逃げ込ませればよく。その残った艦で日本の輸送船を狙えば目的が達成できるのに対し、日本側は制海権を脅かす可能性のある軍艦は1隻たりともウラジオストックに逃げ込ませてはならずロシア艦隊の撃滅し完全勝利を作戦目標にしなければならなかった。だが、日本軍は、この作戦を成功させるためにあらゆる努力を重ねた。
 5月27日昼過ぎ、両艦隊は隠岐島西方において互いに敵の姿を認めた。 連合艦隊の旗艦「三笠」は旗旒信号「Z旗」を揚げ「皇国の興廃、この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」と激励した。また大本営にたいしかの有名な電文を打電した。「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動、これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども浪高し」と。
      
戦闘は、14時08分、近代海軍による大海戦が開始された。(近代海軍により一つの海域に両国の全主力艦が集まり雌雄を決する会戦した大会戦は後にも先にも日本海海戦のみである)ロシア艦隊の発砲により開始されたが、両軍の距離が、8千メートルになった2時5分、穂本軍は「三笠」を戦闘に左に旋回しロシア艦隊の先頭を抑え砲撃を開始した。これが世界でも有名な「東郷ターン」敵前大反転である。15時頃には大勢が決した。5月27日夜、連合艦隊は駆逐隊・水雷戦隊による水雷攻撃をおこなった、28日、再び主力艦隊による追撃を敢行し、約1日半の戦闘によりロシア艦隊を殲滅した。戦果は、ロシア38隻の敵主力艦の中、沈没21隻、降伏・拿捕7隻、中立国に逃げ込み武装解除されたもの7隻、残り3隻の小艦艇が目的のウラジオストックに到達したが戦力としてはは皆無であった。日本の損害はわずかに水雷艇3隻のみである。またこの海戦で、ロシア側は戦死者4545名、捕虜6106名であったが、日本側の戦死者は116名であった。この完全勝利の海戦は前代未聞であり、ロジェストウエンスキー長官ら幕僚らを捕虜にしたことも戦史として後にも先にもない。このような作戦の成功は、想像の域であり世界各国は、当初信じられなかったに違いない。
 奉天会戦の勝利と日本海海戦での勝利は、日露戦争のとポーツマス講和会議への道を開く上で決定的な役割を果たすことになった。

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