教育と強い軍隊は表裏一体だと言える。ナポレオンは、下士官になる必要な条件として、読み書きができることを真先に挙げた。何故ならば、これは命令書を読み、報告書を作成させるための必要最低限のことだからである。
しかし、だからと言って就学率が高かったわけではない。それどころか当時のヨーロッパでは複線型学校体系(二つの学校系統からなる制度)であり社会階級と結びついていた。ヨーロッパには当時、大学と大学入学のための準備教育を行う貴族学校系統と庶民の教育要求の過程で生まれた小学校(民衆学校)などの庶民学校系統の二つである。この二つは体系も違えば、上流階級語と民衆語といった具合に普段使われている言葉すら違かった。この教育の差の弊害は第一次世界大戦によって明るみになった。なぜ教育の差の弊害が第一次世界大戦によって明るみになったかと言うと、さきに述べたように言葉の違いから貴族出身の者と民衆の者とで意思伝達が困難であり、また身分の差の隔たりがあったためこれでは軍が一つにまとまらないとして、初等教育においては学ぶべき内容に差がないとし貴族学校系統と庶民学校系統の統合をさせようという運動がフランスを中心に起こったのがきっかけである。そして第二次世界大戦後に強調された教育の機会均等と理念から統合が進んでいき現在の単線型(高等教育まで同じ)と分岐型(初等教育又は中等教育あたりまでが同じ)の性格を併せ持つシステムと成っていくのである。
一方、日本では1872年に制定された学制によって単線型学校系統がひかれた。四民関係なく学校に入れ高等教育機関である大学にまで入れるようになった。1880年代以降には人材育成を目的のため分岐型教育体系が導入されたが、この教育システムはヨーロッパ諸国と大きくことなる。このことは、やはり当時の国の状況と深く関係している。少ない人口と狭い領土。それに決して富んでいるとは言えない資源という日本の悪条件に、明治の政治家たちは教育レベルの向上によって、国民一人一人の資質を高め、その中からエリートを育成しようとようとした表れであろう。一方ロシアは、まだロマノフ王朝による封建制度でありロシア特有の農奴制がしかれていた。このため、貴族たちは庶民の教育レベルを向上させると、農奴制が保てなくなると危惧した。それどころか帝政の維持さえ危なくなってゆくと考えていたのであろう。そのためか貴族たちは、愚民政策を敢えて改善しようとはしなかった。
この両国の教育の差も戦争の結果に大きく出たと私は思う。
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