逆打ち四国霊場108ケ所巡拝道中記
第 2日 引田から大窪寺まで
第 3日 別格番外大瀧寺を打つ
第12日 本山寺、観音寺、神惠院、大興寺まで
第13日 別格萩原寺を経て雲辺寺を踏破、白地温泉に投宿
第22日 石手寺、繁田寺、浄土寺を打ち、たかのこ温泉に投宿
第23日 西林寺、別格文珠院、八坂寺、浄瑠璃寺を経て三坂峠を越える
第29日 佛木寺、龍光寺、別格龍光院を打ち宇和島で草鞋を脱ぐ
第3回目(2007/1・11〜30)
第30日 龍光院で遍路姿に着替え津島町まで
第31日 津島町から愛南町(旧御荘町)まで
第32日 観自在寺、延光寺を打つ
第33日 宿毛、月山神社経由のルートを採り、ベルリーフ大月に投宿
第34日 大月町から竜串まで
第35日 民宿竜串苑から民宿足摺八扇まで
第36日 金剛福寺を打ち民宿久百々に投宿
第37日 四万十川を渡り、ネストウエストガーデン土佐に投宿
第38日 土佐入野から佐賀温泉まで
第39日 岩本寺を打ち土佐久礼大谷旅館へ
第40日 別格大善寺を打ち横浪ルート、民宿みっちゃんに投宿
第41日 青龍寺、清瀧寺を打ち土佐市白石屋旅館に投宿
第42日 種間寺、雪蹊寺、禅師旨峰寺、竹林寺を打ち、サンピア高知に投宿
第43日 善楽寺、国分寺、大日寺を打ち高知黒潮ホテルに投宿
第44日 香南町から安芸市へ、BH弁長に投宿
第45日 神峰寺を打ち、ホテルなはりに投宿
第46日 金剛頂寺、津照寺を打ちうまめの木に投宿
第47日 最御崎寺を打ち、ロッジおざきに投宿
第48日 道の駅宍喰温泉に投宿
第49日 別格鯖大師を打ち帰宅
第4回目(2007/3・13〜24)
第50日 JR鯖瀬駅から薬王寺・薬師会館へ
第51日 平等寺を打ち坂口屋に投宿
第52日 太龍寺、鶴林寺を打ち民宿かえでに投宿
第53日 別格番外慈眼寺打戻り
第54日 星の岩屋を経て立江寺を打ち鮒の里に投宿
第55日 恩山寺を打ち徳島市内旅館大鶴に投宿
第56日 17番井戸寺から13番大日寺まで民宿花に投宿
第57日 別格番外童学寺を打ち植村旅館に投宿
第58日 焼山寺、藤井寺を打ちさくら旅館に投宿
第59日 10番切幡寺から6番安楽寺まで
第60日 別格番外大山寺、地蔵寺、大日寺を打ち道しるべに投宿
第61日 金泉時、極楽寺を打ち霊山寺に結願のお礼と報告
遍路の総括
遍路の総括
まだまだ憲法9条を諦めてはならない
データ
出逢ったお遍路さんたち
泊まったお宿
頂いたお接待
参詣したお寺
遍路みち雑感
要した費用と歩数
寄稿文
市民の意見30の会・東京ニュースNO.99 (2006・12・1)
市民の意見30の会・東京ニュースNO.100(2007・2・1)
市民の意見NO.102 (2007.6.1)
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この2年間、市民意見広告運動を手伝ってきた。この種の運動に室内整理事務は欠かせないが、運動の最前線は実際にちらしを配り、説得し、募金を勧誘し、最終的目的は非武装・不戦の憲法を変えさせないところにある。書を捨てて町に出ようと呼びかけた作家がいた。ここでちょっとお暇を貰って、わらじを履いてみようと思い立ったのが、今回の九条実現遍路である。
賛同呼びかけちらし100枚、非武装パンフ5部、九条実現シール、殺すなシール、特製収め札など九条実現グッズをリュックに詰め、10年前に50日かけて廻った遍路道を、今回は逆打ちで、別格番外20ケ所をふくめて廻ることとした。
もともと遍路は仏に帰依し、自然の中で自己を見つめなおす修行である。遍路の名を借りて改憲反対のキャンペーンを張ることは遍路としては邪道かもしれない。しかし骨髄バンクキャンペーンのツール・ド・空海と云うのもあったし、空海の道ウオークというイベントもあった。もともと空海も悩める衆生を救うため廻られたとするならば、この日本がおかしい道に迷い込もうとしている今こそ遍路することが求められているのではないか。
注意しなければならないのは、改憲反対を優先させ、祈りの行為が疎かになることである。従来にもまして戒律を守り、礼拝のマナーに徹することが肝要と思われる。南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛。
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一冊の本
今回の遍路は或る一冊の本を届けることから始まった。
ある日、市中央図書館の前を通りかかったところ「ご自由にお持ち帰り下さい」と貼り出された青空市が開かれていた。何気なく手に取った一冊の本、表紙の軍服姿の外人が、私を見つめていたからだ。ドイツ語の分からない私にはどんな本か分からない。ペラペラとめくると、どうやら第1次大戦のドイツ人俘虜収容所の生活記録らしい。かって四国遍路1番札所霊山寺の近くに収容所(注)があり、今はドイツ舘が建っていることは知っていた。「ワタシヲツレテカエッテクダサイ」とその写真は訴えているようだった。近く遍路に出ようとしている私の目に止まったのも何かに因縁かもしれない。本の内容からして当館の蔵書に既に存在することは明らかだ。いくばくかの喜捨をし、貰い受け、届けることにした。 ドイツ舘の受付の女性に、直属の上司に渡してほしい旨言い残して遍路の一歩を踏み出した。
後日、田村一郎館長から丁重な礼状が届いた。ヴェルツブルグでの資料展のカタログの由、「1部しかなかったので助かります」と書き添えられていた。
(注〉坂東収容所は松江豊寿所長の理解のもと、交響楽団もあったほどの独立したコロニーを形成し、生活技術などで地元住民との交流があったことで知られる。軍人は職業軍人は少なく、徴用された市井の職人だったことが幸いしたらしい。表紙の軍人はここで写真屋をやっていた人。
卯辰越え大麻神社で
結願寺までの逆コースは卯辰峠越えを選んだ。今では殆ど人が通らない。地図の上では“未舗装車通行不可”となっているが、海釣りに行く地元の人は近道として重宝している山道を延々と歩いた。1台の車が止まり、お茶のペットボトルのお接待を受けた。お接待第1号である。
讃岐側からの大坂峠への遍路道は素晴らしい。一昔前は讃岐と阿波の物流の動脈として牛馬も通った道で、途中には茶屋もあったらしい。石が張り詰められているところもある。標高380メートルの讃岐山脈越えは人も牛馬も大変な難所であったことに間違いない。
モーテル泊
山を越え、携帯の圏外が外れたところで宿泊の予約を入れた。ホテル引田である。電話の声は「こちらはラブホテルですけどいいですか」と。次の旅館まではかなりの距離がある。迷わず「いいですよ、お願いします」と返事する。着いてみるとモーテルである。車庫の上が部屋になっている。近くの街道筋に活き魚料理店やうどん屋があり食事に事欠かない。宿泊料前払い、遍路特別価格4,000円(通常6,000円)と云うのも四国らしい。私のほかには宿泊客はなかったようだ。
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久米通賢の生家付近で砂糖の搾り機
モーテル出発7:15。近くに日本のエジソンこと久米通賢の生家と墓があるという地で一服しようとしていたところ老婦人が話しに来られた。「近頃は若い人がようけ回りよるのお、どこからら来なさったん」と云うところから話は弾み、若い奥さん方も寄って来た。ここぞとばかり何故遍路に出たか一席ぶつ。私が徳島で空襲にあった話から戦争はいかんと言うことで同意。話をブギの女王笠置シズ子に向けると「生まれたのはちょっとむこうだけど、引田に子―オに来てな(養女に来ての意)などと色々話してくださる。話し好きのおばあさんで30分も話しただろうか。私が74歳だと言うともっと若いつもりで話していたと嬉しいことをおっしゃる。元気をもらって出発。
出会った歩き遍路は5人
もう何回か廻っていると思われる歩き遍路、若いのに謙虚さに欠けるところがあり、まだ悟りを得ていないなと感じながら、これからの行程を尋ねる。今からなら、88番の大窪寺まで行けるし、行くべきだ。白鳥温泉の予約はキャンセルしなさいという。控えめな計画を立てていたが思い直してピッチを上げて歩くことにする。88番そばの民宿八十窪は団体で一杯だと言う。さらに先の旅館竹屋敷に予約を入れる。この日長い距離を歩けたことは自信につながり、その後の計画を大幅にアップすることになった。謙虚さに欠ける歩き遍路某に感謝。
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別格番外20番大瀧寺を打つ 途中で見かけた力石の碑
今日は今回の正念場とも言うべき大瀧寺を打つ。6時出発。宿の女将がお弁当を作ってくださる。山の気候のせいか小雨、風が強い。私にとっては初めての道。遍路道をとれば何とか今日中に帰れると踏んだが自信がない。
歩き始めて間もなく1台の車が止まった。自分も宗教家の端くれ、さぬきのHと名乗る男が降りてきて1分間時間をくれという。「色々の遍路がいる。遍路バカもいる。お前は真面目だ、真面目すぎる。・・・」結局何が言いたいのかよくわからなかったが、山間部を自ら受け持ったという新聞配達の人で、お接待で朝日新聞を1部頂いた。トップに教育基本法改正案可決の見通しとある。
1時間ぐらい歩いたところでまた車が止まった。若者が降りてきて「徳島方面に行くのだったら乗っていかないかとオヤジが言っている」と。ありがたく好意に甘えることとした(徒歩換算1時間半分の短縮、車ナンバー徳島300・30−31、ありがとう)。
夏子ダムで降ろしてもらい遍路道を探したが見当たらない。ままよと車道を延々と歩く。片道6キロのつもりが15キロだ。往復を考えると絶望的だ。しかし歩くより手がない。寺の住職さんの話しでは「別格番外ともなれば、歩く人は殆どなく、遍路道は荒れている。昨日のように暑いとまだマムシが出る、出会い頭にイノシシとぶつかっても、責任が持てない(携帯は圏外)。と云うわけで遍路道の入口はわざと分かりにくくなっていると見た。そういえば鉄砲の音が時々こだまする。道に札がぶら下がっているので遍路道かと近づいてみると「罠アリ」と書かれていたりする。
もう一つの問題。遠いので早起きして挑む。どうしても排便を中途半端に済ませて出発となる。寺は標高910メートルの高所に在り、水がない。目下大きな水槽設置のための募金活動をしておられる。私もお世話になった。計画成就を願って止まない。
夏子ダムの売店で、近くの人が作ったというちらし寿司など食べながら、今朝ほど貰った新聞で教育基本法改正案が可決の見通しであることを知ったので、教育基本法が改正されるとどうなるかを話題にした(中年のご婦人は反応がなかったが、私より年配のご婦人はしきりにうなずいて聞いてくれた)。
宿到着は5時半。もしあの車のお接待がなければどうなっているか思うとぞっとする。これもお大師さんのお助けか。ちなみに歩行計の数字は 58,543歩。これがわたしの限界と悟った。
旅館竹屋敷の夕刻
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第4日目(11月8日〈水〉)
88箇所ルートを逆に歩く。さすが結願寺が近くなり、出会う歩き遍路の数も急激に増えた気がする。今日一日で10数人に会っただろうか。車道で出会った若者は女体山越えをしなかったことに悔いを感じている様子が見えたり、42日目と云う若い女性は登りには自信があるが、降りは自信がないので、車道を行くことにしたと日焼けした顔で話してくれた。逆打ちの悲しさ、遍路道の入口を見落とし延々と車道を歩いた。
へんろ交流舘では何故遍路に出たかを話し、色々な遍路があってもいいのではないかと、納め札とちらしを渡したら150円のお接待を頂いた。
87番を経て86番志度寺を打つ。納経の僧によれば、この寺は海を背にしている。海を彼岸と見立てている。志度寺は昔は死渡寺と書いたらしい。彼岸に渡る意味があった。そこの壁画にも閻魔堂が書かれている。彼岸に渡る際閻魔さんの前は必ず通らなければならない。その中で寺再興の志を抱いた人を閻魔さんが敢えてこの世に戻し、その結果この寺があると言われている。今は納経所も忙しく、こうして寺の由来を話してくれる人も少なくなった。藤原不比等と海女の物語、伝説の寺である。 五重の塔は美しく、瀬戸の海はあくまでも穏やかに静かであった。
宿は“たいや旅館”に取った。「食事は出来ませんがいいですか」の電話に「OKです」と返事しておいた。近くに“金子や”という別の旅館?経営の食堂があり、事足りた。老齢で食事の世話が出来なくなったと話されたので、跡取りの方はいませんか?と聞いたら、いないと言うことだった。料金は素泊まり3,000円だった。後日、善通寺宿坊でいっしょになった若い女性に志度の宿泊情報を提供したところ、「素泊まり3,000円は魅力じゃん、そこにしよう」と目を輝かした。人の思いは区々である。
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八栗寺を打つ
八栗寺裏参道を登る。急坂の途中で2匹の愛犬の散歩の某氏と立ち話をした。日本のアメリカ占領は成功例として受け止めていたのが印象的であった。白内障が進んでと言いながら、ちらしを受けとってくれた。犬の名前はマル、ハナといい、賢そうな犬だった。
門前によもぎ餅屋があった。10年前にも在ったと記憶している。1個100円。「10年間変えないのはシンドイよ」と出来立ての餅で餡を包んでくれた。
しばらく行くと「北九州の戦闘で死亡」と刻んだ墓があった。近くの人にこの表現は変わっていますねと話しかけたところ、私はこの墓の人を知らないのだけれど、北九州で爆撃に遭った人らしいと話してくれた。私も徳島で空襲にあったが、同じ日に高松も空襲で焼けましたよねと話したら、この山から高松の方の空が真っ赤になっているのが見えたと返事が返ってきた。空襲も立派な戦闘である。
続いて屋島寺を打つ。誘われて入った食堂は、近くの作業場工事入の賄いを請け負っている店で、家庭料理であった。なぜ遍路に廻っているかと、おばあさんの背負ったお孫さんを戦場にやらないためですと頭を撫でたら、この子が兵隊にとられることは断じてあってはならないと真剣な眼差しで同意してくれた。
屋島寺から瀬戸内海を臨む
屋島寺のだらだら坂を下っていると一人の歩き遍路に会った。何故遍路に出たかを問わず語りに話したところ、憲法9条を変えてはならないのは「当然ですよ」と云う答えが返ってきた。今回の遍路で初めて出会う賛同の意思表示である。高知のK氏である。嬉しくなって9条実現のシールを渡した。(後日仙遊寺宿坊で再会することとなる)
今日最後の一宮寺を打つ。納経を終えた若者が3人談笑していた。時間的に先を急ぐ時間でないと見て若者とゆっくりと話し合ってみたいと思った。Aは終始和やかな顔で私の話にうなずいていた。Bはそーと姿を消した。Cは「私は武力は必要だと思っています。核も持つべきだと思っています。チベットは武力を持たなかったために中国に侵略されました。北朝鮮と言う国がありますからね。9条は変えてなくはいけないと思います。しかし、私は兵隊に行きません。行きたくないです。」
どうも支離滅裂な他人事になってしまう。本人は得意顔でとうとうと話すのだが。こんなとこが若者の本音かと。
最近湧いたと言う天然温泉きららに宿を取った。温泉棟と宿泊棟が別棟になっており、お湯は豊富だった。食堂で歩き遍路の3人、お酒の好きなKさん、谷啓似のGさん、若い修行僧Sさんとへんろ話に花が咲いた。
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へんろ休憩所にて
6:45きらら温泉出発。別格番外香西寺に向う。途中予期しないへんろ休憩所があった。この7月開設されたばかりだと言う。遍路地図にも載っていない。遍路にゆかりのK一族の者だといい、兄弟3人が交替で務めているということだった。玄関入ったばかりのところに最新式のトイレがあり、遍路のニーズをよく理解した人の設計である。訪れた遍路の都道府県別人数など詳細なデータがとられ、休憩所を開設したことが楽しくてしようがないといった風情である。所望されて私も特製の納め札、木版般若心経を提供したところ、早速備え付けのノートに、撮ってくれた顔写真とともに貼ってくれ、一筆感想を書けという。
納め札から当然遍路の目的には言及せざるを得ない。K氏はわたしの話に耳を傾け、自分は自民党の宮沢氏の流れを汲む立場にあり、平和憲法を変える必要ないという立場だがと前置きして、この問題も“奥が深い”という。
この言葉の意味は政治の世界は一筋縄ではいかない世界だと言うことらしい。「北朝鮮がテポドンを発射したと言うがだれも見たものはない。証拠もない。テポドンで騒いでいるうちに重要な法案が通ってしまった。核は持つべきでないと思うが、今持つということは技術の向上競争になり、とんでもない方向に向ってしまう恐れがあるからだ。」など。憲法問題の奥が深いと強調される意味をいまひとつ聞きそびれた気持ちだったが、非武装パンフを受け取ってもらい、約1時間近くの雑談の後、香西寺に向った。
82番根来寺から81番白峰寺へ山道を縦走する。途中善通寺の自衛隊の基地と思われる一画がありくすんだ色の戦車が並んでいた。また、ところどころに旧“陸軍用地”の石柱が見られる。一昔前までは善通寺師団の要塞地として遍路の通行もままならなかったのではないかと想像する。
宿は“坂出かんぽの宿”をとった。瀬戸大橋一望の温泉宿。前回の遍路で気に入ったところだ。へんろ特別価格1泊8,000円、洗濯・乾燥機完備と云うのが嬉しい。
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若者達が開設した食堂にて
今日は少しゆっくりと9:30出発。初めての雨である。国分寺にからの道と車道が交差するところの道標に誤りがある。白峰寺へ4.2キロ、十九丁へ1.9キロというのはどうみてもおかしい。現に岩手のSさんはこの道標を見て、車道が近いと判断して歩き出し、わたしと出会ったのだ。
80番国分寺の門前の“へんろ昼食500円”にひかれて店に入った。
国分寺跡
店内はこの店が出来るまでの若者達のスナップ写真が展示されていた。客の中には同志と見られる若者達が見られ、活気があった。食事は手作りの惣菜で美味しかった。この若者達を戦場に送ってはならないのだとの思いがこみ上げてきて、いきおい、なぜ遍路に出ているかの説明に熱が入った。ちらし数枚のほか、非武装パンフ、9条実現シール、殺すなシールなどを置いて店を後にした。店を出る際「召し上がってくださいと甘酒の缶を頂いた。今回の遍路で最高の至福を感じたひとときであった。
意見30の会ニュース原稿はどうなっているか電話す。北原さんから12月号は締め切った。後は2月号ですという返事を受けとる。そうかとのんびりかまえる。雨は一段と激しく、途中で買ったポンチョは役に立つ。
79番高照院を経て、八十場の水でトコロテンを食す。店の娘さんと話し込んでいると、宿の予約はなるべく早くしなさいとたしなめられる。食事なしで坂出駅前旅館“松の下”を予約する(近くの“梅の屋旅館”は廃業したとのことだった。また、白鳥温泉近くの“かじか荘”も廃業していた。遍路案内書の更新もなかなか難しいものだと思う)。坂出駅前サテイというビルには食堂街があった。坂出の大都会が携帯フォーマの圏外であったのは意外であった。
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うどん屋での一幕
8:15、旅館“松の下”を出発。丸亀城を左に見て、坦々とと車道を歩く。
丸亀城遠望
79番道隆寺の手前1.5キロと云うところで、のぼりが一杯建ったうどん屋があった。まだ讃岐うどんらしきうどんを食べていない。一休みして行こうと立ち寄った。
玄関には無言舘のポスター(丸亀美術館で開催)が貼ってあるではないか。若い人が働いている。食べ終わって一息入れていると、客の一人がお話しをしてもいいですかと席に来られた。私の遍路の弁を一席話したところ、「自分も日本は悪い方向に向っていると思う」と、さかんに今の若い親の子供に対する教育がなっていないことと強調された。大筋で意気投合し、彼の注文が運ばれたところで握手をして別れた。奥さんとごいっしょで来ておられ、歳は70歳ということだった。周辺で我々の会話を聞いていた若者や店のレジの方に、ちらし数枚と非武装パンフなどを渡して店を後にした。ここでも「店長からです」と言ってレジの女性から麦茶ボトルのお接待を頂いた。間もなく金倉寺というところの公園で一服していると、地元とも旅人とも知れない老
乃木将軍妻返しの松
婦人が近づいてきた。私もお参りは好きだと言う話から、近頃はヘンな遍路も多いという。大阪の遍路は「四国は金になる。と豪語し錦の納め札を1枚1万円で売りつける遍路がいる」という話だった。どうやらこの婦人はこのことを遍路に伝えるのが自分の使命と考えて徘徊しているように見えた。色々の人がいるものだ。
今日は善通寺宿坊に宿を取った。受付は美しい尼さん。洗濯・乾燥機使用無料、食事にアルコールなし、朝6時から勤行の宿坊である。広い風呂でのんびりしていると、琴欧州に似た外人さんが入ってきた。後ほど、食堂で隣り合わせになるのだが、シアトル在住のアメリカ人Sで、四国遍路をするために来日したと言う変
弘法大師誕生の寺善通寺
わり種、日本語はなかなか達者である。なぜ遍路かという肝心のことを聞き漏らしたのは残念だった。
新聞で宇井純氏の訃報を知った。自分のサラリーマン生活よりも、氏の主宰する公害原論のテープ起こしにエネルギーを注ぎ、東大で夜門限後、垣根を乗り越え出入りしたあの頃がなつかしい。ピースボートでもご一緒したし、武蔵野市長戦でも謦咳に触れた。謹んで冥福を祈る次第である
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第9日目(11月13日〈月〉)
満濃池捨身ケ嶽禅定
別格番外満濃池の神野寺を打つ。距離的に全行程歩きは難しく、番外の場合殆ど歩き遍路に出会わないこともあって、電車を利用することとした。琴平で乗り換え、阿波池田行き1両編成の電車に乗る。出発時乗客は私を入れて2名、次の駅で私は降りたので、後は某氏の貸切だ。
満濃池は大きい。多摩湖を凌ぐとも劣らない大きさである。弘法大師が異例のスピードで完成させたと伝えられている。数ある香川県のため池の中で最大と聞いている。
帰りの電車の時刻に合わせて一生懸命に歩いていると、1台の軽トラックが待っている。何事かと思うと80近いと思われる老人が「ぜひ乗ってくれ」と言う。納め札の束を見せ怪しい者ではないという。自分は用がないのでこうしてお遍路さんと運転席で話をして遊んでいるというのだ。歩けば十分電車に間に合う時刻だったし、丁重に断るのだがなかなか許してくれない。ままよと乗せてもらうことにしたのだが、自分なら止まると思う黄信号も突っ走り、赤の信号横断の無謀運転である。信号無視で19千円の税金を払ったばかりだと言う。身の上話やらを話しているうちに再び善通寺をお参りすることになった。昼時だったので一緒に食事でもと誘ってのだが、手を振って自ら離れていってしまった。たかっているのではないと言う矜持であろう。番号は香川41−945.
今夜の宿門先屋(もんさきや)に2時到着。これから出釈迦寺を打って後、奥の院捨身ケ嶽禅定に挑戦である。弘法大師が7歳の時修行で嶽から身を投じた時釈迦と天女が空中で受け止め、いのちを救ったという伝説の聖地である。本堂に到着してから更に岩場を鎖につかまり登るのである。仏像が安置され、遥か瀬戸内海まで見渡せる絶景の地で、大声で般若心経を唱えた。
評判どおり門先屋は気持ちのいい宿であった。
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第10日目(11月14日〈火〉)
海岸寺まで打ち帰京
門先屋出発8:00、71番弥谷寺に向う。途中、遍路道標を丹念に調べておられる千葉の小澤さんに会った。「中司茂兵衛?という人が立てた道標が全部で 287?あると言われており、そのうち約200は記録したり写真に撮った。今調べておかないと風化して分からなくなる。」と石柱を手でなぞっておられた。奇特な方もおられるものだと感心した。
弥谷寺は津軽の恐れ山、臼杵の石仏と並んで日本3大霊地の一つである。弘法大師が幼少期に学問された獅子の岩屋に立ってみると荘厳な気分になる。
弥谷寺門前の俳句茶屋は健在であった。ただ、近くに天然いやだに温泉が出来たため、予約の人しか泊めていないと言うことだった。人気のあったあのご婦人のあとを弟さんが継いでおられるようであった。
海岸寺への道を尋ねたがだれも車道しか教えてくれない。遠廻りを承知で車道を遠ることにした。案の定トラックの排気ガスで快適には程遠かった。なにぶんにも帰りの電車の時刻のこともあり山の中で迷ってはおられない事情があったからだ。今度この後を継いで廻る時は遍路道をたどる予定である。
海岸寺産井
瀬戸大橋をはじめて渡った。瀬戸大橋からの景色は眺めたものの、意見30の会から遍路の道中記を書けとの急なる注文があり、車中で書きなぐり推敲の時間もなく岡山駅コンビニからFAXで送った。かくして第1回区切り打ち遍路の旅は終わった。このたびの九条実現遍路は果たして遍路の邪道か、じっくりと考えてみたい。
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第11日目(11月29日〈水〉)
九条実現遍路と仏の心との接点は未だ見つかっていないが、祈りに手抜きせず、あくまで自然体で廻ることに心がけよう。おのずから道は開けると思う。
前回の終点海岸寺から始める。新幹線で岡山、瀬戸大橋経由、多度津で各駅停車に乗り換える。電車を待っている時、一人のご婦人が話しかけて来た。私がリュックにつけていた、へんろ道保存会のバッジと九条実現のバッジを見てのことだった。第1声は「”へんろ九条の会”が出来たのですか」だった。自分は神戸で震災に遭い、今は粟島に住んでいるというMさん。最近島にも九条の会ができ私も入っている。しかし、もともと香川県は保守の強いところだという。別れに際しお互いにがんばりましょうと、手を差し伸べられ握手して別れた。幸先の予見。
海岸寺から弥谷寺までのへんろ道は荒れていたが分からない道ではなかった。要所要所に石仏が顔を出し、へんろ道らしい風情溢れる道だった。が、如何せんしょっぱなからの登り道は体にこたえた。
弥谷寺から少し行った所で尾道のK氏に会った。菅笠はボロボロ、廻り続けて7ヶ月、4周目だという。問わず語りに分かったことは自分は「母を捨てた」ため郷里にはコワくて帰れない身、廻るより仕方がないと。私は言った。お大師さんが救ってくれると思ったら大間違い、お母さんの手を握ってすみませんでしたと謝ることしかないのでは、そうしなさいと、先輩面。彼はS27年生まれ、憲法については「押し付けらられたと云う人もいるが、日本人ではあんな憲法をよう作らなかったでしょう。あれがなければとっくの昔戦争をしていたでしょうと、私のへんろに理解を示してくれた。が、彼の頭の中は今晩何処で野宿するかで一杯のようであった。
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第12日目(11月30日〈木〉)
太山寺本堂は耐震対策のため工事中
本山寺までの道中歩きへんろに3〜4人会う。門前では托鉢の遍路。
観音寺境内の梧桐庵の若い店員と憲法談義、店にかかっていた「一期一会」の額が話のきっかけ(わたしの納め札に書いてある)。
神惠院のモダンな本堂
あなたの恋人が兵隊に行くことになったらどうするのと。反応はいまいちだった。その後山上から見える寛永通宝の砂絵を見学。どこからともなく顕れたF氏の説明は尽きることがない。瀬戸内海の対岸の地名からカメラの位置まで。どうやら説明のボランテイアを買って出ている人らしい。世の中には殊勝な人もいるものだ。
寛永通宝の砂絵
椿堂に宿の予約を入れると現在はやっていないとの返事。民宿岡田に予約を入れる。雲辺寺越えの拠点は限られるから早めの宿確保が必要なのだ。この辺はリピーターの強み。
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第13日目(12月1日〈金〉)
歩いて登った証明写真
今日は雲辺寺越え。雲辺寺は札所中一番高い標高910m。ロープウエイ山麓駅から頂上まで標高差670m、距離にして4,2キロ、3〜4時間を見込んでいたが、2時間で踏破。我が心臓の強さに自信を持つ。雲辺寺ケ原からは山麓の平野一望、かって陸軍大演習の際、陛下の御座所が設けられたとの話も納得がいく。時代が後戻りすることのないことを望む。途中、みかん農家の婦人から収穫中のみかんのお接待を受ける。
山麓駅の土産店の主人は自分もへんろ案内地図を持っているが、古い版なので周辺の道を写したいとのことで貸してあげる。お礼に芋菓子のお接待。
今夜の宿は白地温泉の小西旅館。着いてから知ったのだが、かって林芙美子が一時滞在して、執筆した宿という。「旅人」、「めかくし鳳凰」など。旅人はS16年「文芸」8月号に発表、主人公加納津助は宿の主人小西悦助がモデル。めかくし鳳凰」はS25年の「人間」3月号に発表。主人公”さつきじいさん”こと堅吉も悦助がモデルとのこと。林芙美子ゆかりの宿が売りで、関係資料がずらりと並べられているが、建物は老朽化し温泉も決して綺麗とは言いがたい。
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第14日目(12月2日〈土〉)
朝から一日中雨、途中霰も。霰が笠を叩く音のすごいこと。初めての経験。
箸蔵寺は名古刹と言うにふさわしい。建物の配置等もさることながら、感心したのは建物の彫刻が素晴らしいこと。職人(左甚五郎の弟子とか)が3代に渉って作り上げたと言う。
ロープウエイ駅前のうどんや「さぬきや」で、同じテーブルの客となった車で廻っている3人連れのご婦人達に、歩いて遍路をしている動機を披露(この3人とは後日山道で再会することとなる)。大阪からの人たちだった。
小西旅館まで打ち戻って出発したところで老婦人から、のし袋に入れた1000円のお接待。雨装備の最中、納め札を渡さなかったことが悔やまれる。
民宿岡田の看板が逆打ちには見えず、大分通り過ぎる。同宿は男性4人、女性1人、いずれも年配者だったこともあって、夕食の話題に憲法を出しそびれる。翌朝宿の主人から話題にすればよかったのに言われて反省する。
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第15日目(12月3日〈日〉)
椿堂遠望
9:00椿堂に到着。椿堂には前回車庫二階の通夜堂に泊めていただいた。その時の会話が忘れられない。住職はもちろん憶えておられないが。「少し遊んで行きませんか、あの椿の木を手入れしてほしいのだが、勿論シルバー人材センター並みの日当は払いますよ」「歩きへんろは最高の贅沢、金、健康、時間の三つが揃わねば・・・おうちのかたは喜んで遍路に出してくれましたか」など。件の椿も大きくなっていた。それだけに手入れもいちだんと難しくなっていた。あの時多少なりとも盆栽風に手入れをしておればとの感慨も湧く。ちなみにこの椿はお大師さんが病気封じに指した杖から芽をふいたとされる。もっとも今のは3代目と言うことだったが。
仙龍寺までの間1295mの堀切トンネルがある。トンネルはへんろの最も苦手とするところである。仙龍寺から三角寺までのへんろ道は荒れており、ごく最近、ある遍路が遭難し、山中で一夜を明かし大騒ぎになったと言う話を民宿岡田で聞いていた。忠告に従って車みちを歩く。伊予三島の街中で車のお接待の申し出があったがお断りし、BHろんどん荘に着く。
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第16日目(12月4日〈月〉)
伊予三島、四国中央市の遍路道は旧国道の町並みで、庭木の手入れが行き届き気持ちが良い。
今回遍路の重要な予定である世界に稀な反戦の碑を訪ねる日である。その碑は四国中央市土居藤原部落の八坂神社境内にある。地元の人に神社の在りかを聞いたがよく知らない。車に手を上げて止めようものなら、遍路のヒッチハイクと間違われて逆にスピードを上げられる始末である。そうした中で近くのM氏が神社の見えるところまで案内し下さった。神社のすぐ近くの人に話題を振ると「何か書いてはいけないことが書いてあったらしいのお」という返事が返ってくる始末。
日清日露戦争の戦没者哀悼の碑で戦争をなくすためには”忠君愛国”の4字をなくす以外に道はないという趣旨の言葉が官憲の目にふれ、碑文が削り取られたのだ。荒畑寒村がこの碑の存在を知り、世界に類を見ない反戦の碑であると紹介したことから一躍有名になった。復刻された碑が隣に建っている。昼食、夕食の食堂でこの碑を話題にしたところ、東京の方がわざわざお見えになるような立派なものが近くにあるとは知らなかったと異口同音に答えた。
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第17日目(12月5日〈火〉)
BH・MISRAはラブホテルのすぐそばだったが、清潔なホテルだった。予約制で朝食のあることを部屋に入ってから知ったが、予約せず、街道筋の食堂でとることにした。これが正解だった。宿を出たところに食堂があった。”朝食”は和食で”モーニング”は洋食だった。コーヒー、みかんのほかお賽銭のお接待を受けた。お礼の納め札を渡しにいったところ、間新しい祭壇に手を合わせておられるところだった。聞くところによると、娘さんが49歳で亡くなったばかりと云うことだった。今晩は香園寺に宿を取る旨伝えたところ代わりに拝んできてくださいとご夫婦の納め札と更に1000円のお接待を頂いた。あいにく香園寺では朝の勤行がなかったので後で泊まった仙遊寺でお祈りをしてもらい、Aさんあてに祈祷のお札を送ってもらった。
少し行ったところ萩生にへんろ休憩所があり、ノートが置いてあったので「逆打ち四国霊場108ヶ所巡拝、武力で平和を創れない、よみがえれ九条!と書き、署名した。
萩生庵
しばらく行き地蔵原大師堂境内で昼食を取っていたところ、掃除をしておられた79歳のMさんから暑いお茶をご馳走になった。わざわざ自宅に帰ってコップをとって来られたらしい。しばし歓談。
香園寺宿坊では今日の泊り客は私一人と聞いていたが、食堂では福岡出身の若いSさんと一緒になった。5時過ぎて宿泊を申し込んだと言う。例によって話題を憲法に向けたのだが、帰ってくる答えがちぐはぐなので、禁句ながら年齢を聞いてみた。17歳だという。ここまで何日かかったか聞くと「14日」という異常に早い答えが返ってきた。難所と言うところは殆ど自分の足で歩かず、車のお接待を受けまくったといって良いだろう。本来なら高校2年だが学校は休んでいると言う。お家の人は喜んで遍路に出してくれましたかと聞いたところ、かかりつけのカウンセラーが家の人を説得してくれたとのことであった。鬱の状態なのか一度たりとも笑顔は見せない。翌朝へんろ姿をみて「様になっているじゃない」とチョコレートをお接待したら、かすかに笑顔がこぼれた。その日から毎日札所では「Sさん元気になって」と祈った。もう結願しただろうか。
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第18日目(12月6日〈水〉)
朝の勤行はなかった。住職が留守なのか、泊り客が少ないからか、おそらく前者であろう。
横峰寺も難所の一つとして知られている。特に逆打ちは山道を延々と登る。そろそろ麓の民宿に泊まった人たちとすれ違うだろうと思ったとたん、美しい女性の一人遍路に出会った。観音様か吉祥天女か。続いて若い男性そしてまたしても若い女性の一人遍路、そして次に若い女性の二人連れ。こんな日も珍しい。
寺に着き、更に星の森まで足を延ばし、金の鳥居越しに石槌山の峯を遠望す。登り降りとも遍路道は雨で荒れており、通行不能の箇所があった。
石槌の峯遠望
宿は丹原の榮家旅館に取った。民宿の主人はかって遍路客を乗せたマイクロバスの運転手で、前回遍路の際、18番恩山寺で「うちのかあちゃんが遍路宿をやっているから泊まってやって」と声をかけられたことがあった。そのときは行程が合わず泊まらなかったが、今度は出来れば泊まろうと決めていた。その話をすると、その頃合から見て勤めの最後ごろで、直後に退職し年金生活に入ったとの事であった。奥さんは生まれたばかりのお孫さんの世話で賄いはご主人が切り盛りしておられた。
愛媛県はみかんのみならず柿の産地でもある。西條柿、愛宕柿など無人販売所があちこちにあった。
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第19日目(12月7日〈木〉)
出発に際してよく憶えていてくださったと奥様から昼食のお弁当のお接待を受けた。今日は毎年墓参りに帰郷されるかたの予約が入っています。その方も武蔵野市吉祥寺在住です。或いは近くの方かもねなど別れを惜しみながら別格生木地蔵に向った。
弘法大師一夜にして生木に刻んだとされる楠は枯れて老残の身を横たえている(写真)。次の興隆寺も別格札所。寺域建物ともに名古刹にふさわしいたたずまいである。紅葉の時はさぞかしと思わせる。鐘を撞き、参拝を済ませたが、納経所に大きな看板で「不在、納経は下の客殿寺社務所で受け付けています」という趣旨の看板がぶら下がっている。目下、寺に人はいないので麓の客殿寺が納経所になっているのかと勘違いし、山を降りたが、そんな寺は探しても見当たらない。結局客殿と彼らが呼んでいる建物が納経所になっていると言うことだった。再び山を登る気力なく、念珠などの郵送を依頼して次の札所仙遊寺に向った。逆打ちの悲しさと怒りで冷静さを欠き道に迷って遠回りし、仙遊寺に向う時はとっぷりと日が暮れ、山の遍路道は真っ暗な闇、こんなところに宿坊があるのかと、不安に怯えながら歩いた。
同宿は高知のK、名古屋のS両氏との3人。食事の際、遍路の動機開陳に及んだ際、S氏がK氏に「あなたも屋島で遍路から延々と憲法の話を聴いたと言っていたね」と。K氏曰く「1時間ぐらい云々」。そこで小生「あなた高知の方?」「そうだ」「その遍路私ですよ。1時間はひどいな、せいぜい15分ぐらいですよ」と言ったいきさつがあって3人は見事に1本の糸でつがることになった。厨房の女性を含めてしばし憲法談義。彼女の話によると住職も平和については関心が深い由(翌朝住職の説教は「12月8日はどんな日か知っていますか、お釈迦様が菩提樹の下で悟りを開かれた日です。こともあろうに日本はこの日に戦争を始めてしまったのです」と云うところから始まった)。また厨房の女性Aちゃんは「昨晩あのチラシを読んだ。私も一口のるわ」と笑顔で送り出してくれた。今回の遍路行の手ごたえを感じた一日だった。
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第20日目〈12月8日〈金〉)
この日も一日中雨、今治市内を歩く。途中南光坊から延命寺への道は大きな墓地のなかを通り抜ける。墓地には軍人墓地の一画があり大きな忠魂碑と軍人の石塔が林立している。戦死者に対し多額の弔慰金が支給されても本人はもうこの世に生存しない。せめて大きな墓石を立てるぐらいしかその死に報いることは出来なかった悲しい時代を象徴している。立派な墓碑は悲しい。不戦の思いを新たにする。
日暮れも近い頃、農作業を終えて自動車を運転して帰路につく婦人が、車を止め、私のあとを追いかけるようにして来られ、1000円のお接待を頂いた。間もなくして若い女性の一人遍路に合った。今日はどこまでと?と聴くと「行けるところまで行って野宿です」との答えが返ってきた。宿に泊まれるだけ私のほうが金持ちだ。さっきのお接待1000円を渡すべきだったと気がついた時、件の女性の後姿はかなり小さくなっていた。修行が足りないぞ!
瓦の特産地菊間に宿をとった。料理仕出し屋を兼ねていることも合って味は悪くないのだが、ボリュームの多いこと、人間の胃袋の大きさが計算に入っているのかと、いささかびっくりした。この付近にはへんろ宿がここしかなく、家族に何かあっても宿を閉めるわけにも行かない苦渋の胸のうちを切々と語ってくれた。
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第21日目(12月9日〈土〉)
菊間は瓦の産地として名高いが、見渡しても煙突はない。丁度車を停めて出てこられたM氏から話を聞くことが出来た。昔の瓦産業のイメージは庭に天日干しの瓦が並び、煙突から煙がむくむくとあがっている風景、もうこの様な景色は見られない。今は焼成、乾燥全てガスで行われる。装置の立体化、オートメーション化により、工場はコンパクトになり、一変したとのこと。
雨のなか瀬戸内の海を眺めながらひたすら歩く。ほりえからわけの間の遍路道はとりわけ分かりにくい。親切な車運転のおじさんが要所要所で車を止め誘導してくれる。ありがたいことだ。
円明寺にはキリシタン灯篭があった。
鎌大師付近で松山在住のOさんに連絡を入れる。市民意見広告運動に共に参画した同志だから素通りするわけにはいかない。Oさんから連絡が入り、明日近くの駅で待ち合わせすることに決まった。
宿はBHというより旅館並みで素泊まり3800円と安い。工事現場の方の利用が多く、”旅館”とするより”ビジネスホテル”としたほうが客層が安定すると言う配慮からだそうだ。夜のいさり火、朝には堤防に釣り人の姿と旅情を誘う。週末とあってたまたま他の宿が取れなくてこの宿にしたのだが、Oさんの住まいのすぐ近くとはこれもお大師さんの心配りか。
近くにフェリーの港
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第22日目(12月10日〈日〉)
伊予鉄道みつ駅でOさんと待ち合わせ。初対面だが遍路姿は一目瞭然、無事ドッキングに成功。遍路道までやく2時間ばかりいっしょに歩く。途中喫茶店でモーニングセットのお接待を受ける。市民の意見30の会ニュースの遍路道中記を読んでおられ(私は目にしていない)、「ソロソロ着かれる頃と気になっていました」とのこと。二つの重要な情報を教えていただいた。一つは石手寺の住職が世界平和に関して関心が深く(辰濃和男さんの著書「歩き遍路」に紹介されていたことを思い出した)、住職に逢うことを薦めてくれた(実際にはお留守で逢えなかったが)。もう一つは八幡浜にある”南海日日新聞”が取材したいと言えば応じてくれるかと言うものだった。OKの返事をしたのが後日15日の取材となって実現した。
道後温泉を抜け、前回同様鷹の子温泉に投宿。湯船で脚を伸ばし、あすの山道に備える。
クロガネモチの実
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第23日目(12月11日〈月〉)
梅もどきの実
文珠院は衛門三郎の私宅跡とも言われる
遍路の始祖とされる衛門三郎の里を遍路道車道取り混ぜ、延々と歩く。逆打ちの三坂峠は厳しい。5時、大宝寺近くの安らぎの宿でんこに着く。でんことは赤ちゃんの着るちゃんちゃんこのことでこの地方の方言。
主人は決して愛想がいいとは言えないが、レストラン兼営、料理は美味しかった。
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第24日目〈12月12日〈火〉)
八丁坂
岩屋寺
宿に荷物を置き出発。大宝寺直後の遍路山道は結構こたえる。ややあって河合部落に出る。かっては5軒の遍路宿があり、一日300人の遍路客で賑わったところと案内板に書かれている。八丁坂を越え岩屋寺には裏山から入る(降りる)コースを取る。途中せりわり禅定の修行所前を通ったが、寺で許可の鍵を受けとり引き返し再度登る気力に欠け、今回も見送り。
門前にはうどん屋があるものと期待して行ったが廃業同然、やむなく売店でカップうどんに熱湯をかけてもらい食す。店番は若い青年、その友人と会話が弾んでいる。食べ終わって例によって憲法談義を差し向けたが、突然の話題に戸惑いを見せ、ほとんど彼らの意見を聞くことは出来なかった。自分自身の問題として真剣に考えてほしいと言ってチラシを渡して別れた。
宿の近くまで打ち戻ったところで、携帯電話が鳴った。南海日日の近藤記者から、金山出石寺の頂上で取材したいとの申し出だった。何としてもこれから三日間はがんばらなくっちゃあと思った。
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第25日目(12月13日〈水〉)
朝から激しい雨。途中へんろ地図を紛失したが、コンビニ前の路上に落ちているのを発見、事なきを得た。虫が知らせたか雨の装備を点検したのが良かった。危ない危ないと自重。無事鴇田峠を越える。この峠越えは逆打ちが楽と見た。三島神社付近で川口のNさんと会う。宿情報として椿堂が泊まれないことを伝え、雲辺寺越えの投宿計画を早めに立てるようアドバイス。その後に会った若い女性遍路にも伝えた。共にへんろ特有の「いい顔」が出来上がっていた。
楽水大師前を掃除している80歳の老人と会った。これから少し先の千人宿大師堂で前回遍路の際泊めていただいたお礼の挨拶をして通り過ぎたいと話したところ、「山本さんは10日ばかり前に亡くなったよ」という返事が返ってきたので驚いた。
千人宿大師堂に着き読経が終わった頃に奥さんが帰ってこられた。事情を話したところ「今日泊まってもいいよ」と言っていただいた後、「主人は眠るように逝きました。便座に座り、ひざの上に手を置き、その姿のまま言葉を一言も発しないまま気持ちよさそうに逝きました」と繰り返し言われた。平素信心の深い人にだけ許された往生であろう。不思議な縁の余韻の中、大師堂を後にした。
今夜は「大瀬の館」泊と決めていた。その前後に無料宿泊所もあったのだが、この雨の中、濡れたものを乾かしたかったからだ。大瀬の宿にしたのは正解だった。
宿の建物はもともと医者の邸宅だったそうだが、その後、村の役場などに転用されてきた由緒あるもの。この売却の話が持ちあがった際、市民の保存運動が奏功し、今は1階は土日には喫茶店、2回は宿泊に供していると言う市民運動の拠点とも言うべきものだった。食事はできないと言うことで近くのコンビニで食料を買い込み、到着した頃を見計らって世話役の方が2,3人来られた。一通りの宿の説明をし、宿泊料3000円を受け取り、「それでは私たちは鍵をかけて帰りますからごゆっくりと、明日は中からは鍵が開きますから挨拶しないで適当に出発してください。そうそう夜中に天井でごそごそ音がするかも知れませんがムササビのいたずらですから気にしないで、それではおやすみなさい」と帰っていかれた。大きな屋敷は文字通り私一人、風呂をわかして入り、暖房で濡れたものを乾かし、12畳の大きな部屋で大名気分で快眠した(ムササビは出なかった)。
大瀬の町が大江健三郎の出身地であることは前回の遍路の際、神社の掃除をしておられたご婦人から聞いて知っていたが、町並みは数段綺麗になっていた。大江氏の肩入れもあったらしい。
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第26日目(12月14日〈木〉)
トースターでパンを焼き、サービスのコーヒーを頂き、8:00に館を出発。
すこし歩いたところで東京のKさんに会った。これから鴇田峠を越えたいが大丈夫でしょうかとの質問。可能だと答え、しかし登り一方だから甘く見ないでと付け加えた。それに大瀬の町はぜひへんろみち(大江さんの実家の前)を通ること。大瀬の館のこと。椿堂の宿情報を伝えた。
内子の町に入ったところに道の駅があった。草餅8個入りを買い、すれ違う歩き遍路にお接待することにした。町の要所は前回観光見学しているので道を急いだ。餅は程よく捌けた。
十夜ケ橋を参拝、納経所で別格金山出石寺の遍路道を尋ねたところ、かなり荒れており車道を遠回りしなさいと教えられた。話の延長として遍路の動機を話すと、今一番の問題はエネルギー問題だと言う。戦争や食料問題で自然に人間の数が淘汰される仕組みになっている。次はエネルギーだというわけ。人間の適正な人口を保つためには戦争も必要悪とも受け取れかねない返事が返ってきたのには驚いた。これが坊主の発想と云うものかと苦笑を禁じえなかった。或いはもっと深い意味があったのかもしれない。
今夜の宿は、次の札所に一番近いのを理由に、大洲城三の丸の大洲ユースホステルに決めた。
大洲城
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第27日目(12月15日〈金〉)
7:00、宿の2階から階段を降りると南海日日の近藤さんが待っていた。急な取材予定が舞い込み、確実に会える方法を選択したとのことだった。宿の前に停めてあった車の座席で取材を受けることになった。そのため結局出発は50分遅れとなった。記事は翌16日の紙面に写真入で掲載された。
金山出石寺への取り付け遍路道は地元の古老からも通るなと言われ、車道を歩いた。昨夜十夜ケ橋で野宿をしたという青年としばらくの間同行した。彼は戦争をしないために武力を持つべきだと語った。武力による抑止力も無視できないとの考えであろうか。
寺からの帰途遍路道を通ってみた。案の定、竹やぶの地すべり、夏草の繁り放題、倒竹、最期の極めつけは広範な地すべりだった。無理して突破を試みたのだが、地すべりの地面は柔らかく靴がずっぽり埋もれる状態であった。大事に至らなかったのは幸いであった。
同宿は佐賀のSさん。明日出石寺を打つという。情報は詳しく伝えた。宿の女将さんは知性を感じさせる話せる女性だった。Sさんも気さくな進取の気鋭に富んだ方で談論風発尽きることはなかった。
追記(2007,4,15)
女将さんの話の中で佐田岬半島にある三机湾は真珠湾と地形が似ているところから、特殊潜航艇の演習基地があったという話しがあった。真珠湾で捕虜第1号になった酒巻海軍少尉が戦後どういう生活を送ったか気になっていた(戦後体育の教師として赴任した先生の名前が同姓、徳島出身であることから私の記憶にあった)。結願後調べてみたところ意外なことがわかった。その結果を追記する。「10番目の幻の軍神」戦後の記。
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第28日目(12月16日〈土〉)
ホステルを7:30出発。昨夜のうちに雨合羽を受け取っていなかったため、女将さんを起こしてしまった。別れに際してデジカメでパチリ。ホームページに載せると言う。昨夜の会話でも「あなたのホームページを見たわよ」「覗かれちゃったか」と私。後日HPにアクセスすると件の写真のほか、意見広告運動や私のHPにリンクが貼られ、紹介されていた。感謝!
西予市までの途中に鳥坂(とさか)トンネルがある。人道無しの1117mのトンネルだ。トンネルの入口で峠への遍路道と取ったのは正解だった。この峠は逆打ちには楽だが順打ちにはかなりの難所だ。山道で11人の歩き遍路の団体に遭った。地元のグループのようだった。
明石寺を打つ。例によってお御影を1枚頂き、袋を所望したところ「うちでは2体以上でないと袋はつけていません」という返事。袋をケチってどうなると思ったが2体買う気にもならずそのまま寺を後にした。おそらく88ケ所の札所で袋を出さない寺はここだけであろう。印象ワースト・ワンである。
民宿みやこに投宿。農業に見切りをつけレストラン兼営の民宿に転向したと言う主人の松本さん夫婦は気さくで話好き、料理も美味しかった。昨日南海日日の取材を受けたことを話すと、奥から新聞切り抜きをもってこられた。ごく最近、近くのへんろみち分岐点に、あずまやの休憩所を建て背後に交通安全見守大師像が建立された紹介記事である。松本さんの音頭とりで出来上がったもの。「こんな些細なことでも誰かが音頭を取らないとできない。出来たらできたで、自主的に掃除する人や花を植える人が出てくる」と住民自治の原点のようなお話である。明日あそこを通る時にぜひ見てくださいと嬉しそうだった。
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第29日(12月17日〈日〉)
昨日紹介された休憩所を通った。大師像は心なしか松本さんに表情が似ているので噴出してしまった。地蔵さんじゃあるまいのに大師さんに赤い涎掛けをかけた人がいるが、それを言っちゃあおしめーよと黙っていると笑われたが、休憩所には市の水道も付き立派な休憩所だった。
松本さんは歯長峠に建てる峠の由来の看板も出来上がっていると見せてくれた。その峠を今日越えた。前回、麓で道に迷ったことを思い出したが、今回は一発で越えた。四国循環道路の工事のため記憶とは全く違ったものになっていた。何処でも言えることだが、前回の遍路の時に比べて道路は格段に良くなっている。公共事業の見直し云々の実態をこの目で見ることとなった。
佛木寺から龍光寺への道はすこし遠回りになるが、遍路道ではなく「四国のみち」を通ってみた。途中、中山池があり、その周辺の道はなかなか良かった。この四国のみちと遍路みちは大部分で重なっているが必ずしも同一でないから時には翻弄されることになる。札所でない寺などが紛れ込んでいたりするからだ。
四国遍路が世界遺産に登録されると失われた遍路道、荒れた遍路道が良くなると期待する声がある反面、大勢の人が押しかけ、お接待のような優しさが薄れるのではないかとの懸念も聞かれる。
宇和島駅前の龍光院を打ち、笠と杖を預かってもらった。来年の1月ここから打ち始める予定であるが、その日はまだ決めていない。
宇和島城天主閣からの遠望
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第30日〔1月11日(木))
空路松山経由宇和島市へ。前回の終点龍光院で笠と杖を受けとり、午後1時出発。
さすがお正月、歩き遍路には一人も出会わなかった。津島町大畑旅館に投宿。この宿はかって獅子文六が「てんやわんや」執筆のため逗留した宿であった。

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第31日(1月12日〔金〕)
津島町は霜の多い町で知られる。霜化粧した遍路みちを行く。鴨田橋近くに休憩所。今回の遍路に当たっては、お接待のお返しに若松さんの九条植物絵はがきを差し上げることとした。大畑旅館と同じく椿の絵柄が人気。休憩所近くの家で入口に九条の会のポスターを貼った家があり、ちらしと納め札をポストへ投入。
清水大師の少し手前で最初の歩き遍路に逢う。東京のO氏。話すうちに私の住所近くの成蹊大学の卒業ということで親近感を増す。昼食は海辺のレストラン”ことぶき”で、手渡したチラシを見て話すうちに女将さんが「私は千駄ヶ谷小学校の卒業なんですよ」と。意見広告運動事務局が千駄ヶ谷にあることを知ってのことだった。奥から錦の納め札を取り出して来て下さる。錦の納め札は100回以上廻った者に許される札で、これを1枚1万円で売る悪徳遍路がいることを噂に聞いていた。思いがけず宝物を手にした感じだ。
レストランを出て間もなく尾道のK氏に会う。K氏は第11日目(11/29)に一度逢っている。その際エンドレスで廻っている理由を聞いたところ、母を捨てて遍路に出た。いまもこわくて故郷に帰れないということだった。「あなたはお母さんが元気なうちに帰るべきだ、一人では帰れないならば、わたしと一緒に行こう。今ここで私は遍路を打ち切る決心はついている、どうだ、」と聞いたところ「帰る決心はついていない、もう少し廻らせてほしい」という。「自分にできることがあれば力になりたい、決心がついたらいつでも連絡してくれ、東京から飛んで来るから」と言って別れた。
四国は暖かい。地生えのブーゲンビレアがあちこちで見られた。

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第32日〔1月13日〔土〕)
昨日の宿は民宿磯屋だった。泊まり客は私のほかに区切り打ちで歩いている東京の女性だった。例によって憲法談義に入ったが、彼女の意見は「アメリカは日本をアメリカナイズするために60年かけてマインドコントロールした。それに気がついた。」彼女と同年齢の女将さん(1945年生まれ)は「他国に守ってもらっているのだから属国化はやむをえない気がする。」と。二人とも今のアメリカのやり方には賛成できないが武力を持つことはある程度必要な気がするという意見だった。

松尾峠には松尾大師が復元された。桜の木を伐ることまかりならぬということで、屋根から出ている。かんぬきをはずすと中に入ることも可能である。ただし、連泊は禁止ということになっている。桜の寿命はせいぜい百年、大師堂の寿命に比べると短い。私なら桜の木を新しく植えて育て、こんな中途半端な屋根にはしないのだが。お役人の考えが分からない。峠の是従西宇和島藩、是従東土佐支配地の石柱が面白い。
民宿嶋屋に投宿。前回もここに泊まった。実質経営は娘さんの手に移っていた。食堂には先代の女将が宇宙飛行士向井千秋を詠んだ歌が朝日歌壇?に入選した縁で向井さんの色紙が飾ってあった。食堂は公私のけじめなく、うす汚く昔日の面影はなかった。銀行勤めの息子さんが定年後継ぐということなので、往年のハートフルな宿に戻ってもらいたいものだ。
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第33日(1月14日〔日〕)
”道の駅すくも”に立ち寄る。だるま夕日が見られるというので日没の時刻表が掲げてあった。敷地内には昔はどこの部落にもあったという高床式の若衆宿が遍路休憩所として復元されていた。
国の重要有形民俗文化財”浜田の泊屋”を復元
珊瑚製品の売り場の女性からお菓子のお接待を受けたので、九条絵はがきをお返しし、あなたの恋人が戦争に行くような時代がそこまで来ていると話たら、納得され珊瑚の根付を頂いた。
しばらく行くと「しゃえんぶえん市場」と云うのがあった。しゃえんとは野菜のことでぶえんとは魚のことだった。見たことのない魚が沢山並んでいた。地の人が作って卸している魚の姿寿司を300円で買い昼食とした。
宿はホテルベルリーフ大月にした。へんろ特別価格として通常価格の3割引きというのが嬉しい。朝食が7:30からと遅く、コインランドリーがないこと、かなり高いところに位置し、疲れきった遍路にはつらいが、施設眺望とも申し分なかった。
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第34日(1月15日〔月〕)
郵便局ではがきを投函、杖を忘れたことに気がつき、引き返したところ、金子哲夫のポスターがバス停待合所の壁に貼ってあるのを見つけた。金子哲夫は妻睦子の実弟で、来る参議院選挙全国区で社民党から立候補の予定である。道中、共産党と公明党のポスターが随所に見られたが社民党のものは殆どなきに等しい。組織力の違いを見るようであった。社民党は村山内閣の変節以来、どうしようもないところまで落ち込んでいるが、護憲の党として甦ってほしいものだ。金子哲夫のポスターを見たのは土佐清水市が最初で最後だった。早速本人にメールを入れた。
哲ちゃんガンバレ!
月山神社を廻る道は昔からある古い遍路道だが、山の中のコースに比べると1日分余計に日数がかかるので、今は通る人が少ない。月山神社は社殿は小さいが、海の神様として多くの人から信仰を集めている点は今も変わりない。
ひたすら海を眺め、水平線に目をやる空海の世界である。
宿の民宿竜串苑は奇勝竜串のすぐそばであった。テレビのスイッチが入らないと言いに行ったら、100円玉を入れてくださいということだった。いまどきテレビが有料というのも珍しい。
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第35日(1月16日〔火〕)
竜串は前回の遍路で足を延ばさなかったので、是非見たい景色の一つだった。奇勝と云うにふさわしく、今まで見たこともない景色だった。岩石侵食の妙である。岩場は極力人手をかけないことを旨としているらしく、まかり間違えば海の中、足の不自由な方には不親切でもある。海底舘もあったが見学は割愛した。弘法大師が見残したと言われる”見残し”は前日見ておいた。


”道の駅めじかの里土佐清水”でキャンピングカーで全国を廻っていると言う香川のKさんと約1時間雑談した。道の駅でありがたいのはトイレだという。車についてはいるが洗うのだ手数だからつい”みちの駅”のお世話になるということだった。話は海外にも及び韓国の若者は徴兵制のためか緊張感があること、ベトナムでは一歩間違えれば地雷が埋まっているゲリラ陣地の話、父は憲兵隊だったが戦後は腑抜け状態で母に養ってもらって生きていたこと、今日本人は失ったものに気がつき何とかせねばと思っていること、憲法の問題も武力の問題もその延長線にある、武力を全く持たないで良いかとなるとその説には賛同できかねる、と云うのがおおよその見解のようだった。
足摺岬の民宿足摺八扇に宿をとる。
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第36日(1月17日〔水〕)
雨模様の予報が外れたのはラッキー。曇りのち晴れ。金剛福寺は線香たて・蝋燭立ての掃除が行き届いていて気持ちが良い。歩き遍路と見てお茶のペットボトルのお接待を受ける。

途中くるまを止めて私の来るのを待ってくれ、青年からポンカンのお接待を受ける。「貰ったもので味はわかりませんが・・」と。この後食堂・商店がなくポンカン3個のお接待はありがたかった。3時ごろ大岐海岸付近でこの辺の海岸で獲れたという蛤雑炊にありついた。
宿は民宿久百々に決めていた。遍路情報でホームページ開設のさい、メールを入れたことがあり、また拙著「私稿へんろ考」を送ったこともあったからだ。評判どうり女将さんの神原るみ子さんは心根の優しい人だった。早速写真を撮ってくれ、HPに載せますと言うことだった。
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第37日(1月18日〔木〕)
宿を出たとたんバス停待合所で昨夜野宿をした京都のS君に会う。彼は知覧の特攻隊の記念館を見たときの印象を交えて、愛国心は必要と力説。自分は外国も見てきたが愛国心のない国はない。通っている国際関係の大学には韓国、中国の学生も多いが愛国心の問題になると教授も彼らの顔色を窺ってびびっている始末で情けない。僕は国のために何かできることがあれば兵隊にも行くつもりだ。武力以外にも方法があるかも知れないがその道を探る努力を日本は怠っているかも知れない。以上が彼の所信の要旨だった。自分の考えをしっかり持っていてこういう青年もいるのかとあらためて思った。
四万十川の土手で川のりの漁場を眺めながら、久百々から頂いたお弁当を開く。
四万十川のノリの筏遠望
黒潮が最初にぶつかる海岸、亀の産卵する砂浜、勇壮な鯨漁の伝統を持つ地、京都の公家が都恋しさに作った大文字焼きの山などそれぞれ土地柄がしのばれて面白い。今は鯨の見える季節ではないのが残念。
宿は”ネストウエスト土佐”にする。海辺に建つ円形の建物で中庭はハーヴ園となっている。

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第38日(1月19日〔金〕)
入野の松原を通り過ぎる。海水を引き込んだ公園の池が面白い。しばらく行くと東寺庵という遍路休憩所がある。宿泊も可能で二人の管理人(修行僧)に逢った。「時世は物が豊かになり足りるを知ると言うことがなくなったのが一番の問題」。戦争が人口調節の機能を持っているという考えの納経僧の話を持ち出すと、「自分もその考えにある程度共感を覚える。アメリカも10年毎に戦争をしているのも国内の人口をこれ以上増やさないためだ」と。托鉢をしないと一人前の遍路ではないという意見と、あれは乞食と同じだからするなと云う意見があるがどうなんですかと聞くと、「いろいろな考えがある。自分達二人のうち一人は交代で托鉢に廻る。その際一銭も身につけないで出発する」とのことだった。

海の色も処によってさまざま、エメラルドグリーンの海。宿は佐賀温泉に決める。
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第39日(1月20日〔土〕)
岩本寺を打つ。雨が降り始める。七子峠を越える。草刈十字軍で有名なそえみみず遍路道は四国横断自動車道建設のため通行止めかも知れないと、民宿久百々で聞いていたが念のため入口にまで行ってみた。すると入口の看板には「平成20年12月31日まで通行止めを実施します」(写真)とあり、やはり通行止めかと判断し、大坂ルートを通ることにし、通行止めの旨を民宿久百々にメールで伝えた。しかし、考えてみるといかにも期間が長いし、七子茶屋の人も旅館の人もそんなこと聞いていないと言う。よくよく考えてみると看板の意味は通行止めを実施する日があるという意味で常時通行止めではないと受けとれる。通行止めを実施する日は別途「通行止め中」の看板がもう一本立てられると考えた方が理にかなっている。久百々にはその旨訂正メールを送った。日本語は難しい。実際はどうなんだろう。

土佐久礼の大谷旅館に投宿。宿では岐阜のT氏と一緒になった。彼曰く、「高知の道路はゴミ一杯で汚い、
太平洋の大きさに比べるとこの程度のゴミは問題ないと考えているのだろうか、私は百姓だから毎年1回農閑期の今の時期に区切り打ちをしている。所詮遍路は自己満足というのが今現在の結論」と。もっともらしい理屈を連ねても所詮自己満足かも知れないと妙に納得。
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第40日(1月21日〔日〕)
朝食はお弁当という約束を幸い、未だ明けやらぬうちに出発。3キロ程行った焼坂峠への分岐点付近で夜が明けたのは幸いであった。遍路みちらしい山道。須崎市に入り、別格大善寺を打つ。「別格の寺も色々、興隆寺のように檀家を6千も抱えた裕福な寺もあれば当寺のように檀家は100程、駐車場も借り物という寺もある。いま別格霊場会の会長は鯖大師、念珠の親玉は会長職が管理している。会長は任期4年」など、納経僧は話好きでいろいろのことを教えてくれる。
大津橋を渡るころから本格的な雨模様。横浪三里をひたすら歩く。民宿みっちゃんに付いたのは5時半。女将さんが心配して宿の前で待ってくれている。早く連絡を入れるべきだったと反省する。食事はイセエビ1匹丸かじりの鍋料理が主で、脳みそ、刺身と豪快にイセエビを堪能する。この民宿を無理して長い距離を歩いたのは、辰濃和男氏の四国遍路(岩波新書)や歩き遍路(海竜社)で紹介されているのを知っていたからだ。ひとしきり辰濃氏のことを話し合った(私も「四国遍路」の読後感に添えて拙著を送ったところ、丁寧な返事を頂いた)。

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第41日(1月22日〔月〕)
民宿みっちゃんは車道から2キロ海岸まで下がったところにある。車道まで車で送るという女将さんの申し出を「承知の上で来たのだから」と断る。おにぎりをお接待していただく。横浪三里は意外とアップダウンに満ちた道だった。青龍寺を打ち宇佐大橋を渡る。土佐市中心部には塚地峠を越える。昔は鰹の道、塩の道としてなくてはならない道だったが、トンネルができ2分で通過する。安政の大地震の碑があり、往時津波の被害は大きいものがあったことを伝えている。
白石屋旅館に荷物を預け清瀧寺を打ち戻ることとする。寺の境内で談笑する数人の老人達に会った。その一人が「そもそも遍路に出られた動機は何ですか」と聞いてくれた。渡りに船と憲法9条を話題にする。すると「ここの私たちみんな九条の会の会員です」と名乗られるではないか。うち一人はフィリピンで敗戦の日を迎えた生き残りだと言う。パンフ「武力で平和は創れない」を宿においてきたことを悔やんだ。
宿でも話題にすると、女将さんは知覧の特攻隊の記念館を見て何故にこうなる前に何とかならなかったものかと思った。竹島問題や漁船の拿捕の問題が起きると歯がゆくて仕様がない。もっと外交の力を発揮できないものかと。武力よりも外交力が求められていると思う、と感想を述べられた。
青龍寺の本尊は弘法大師作波切不動尊
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第42日〔1月23日〔火〕)
宿を出て間もなく日の出に遭遇。登校の児童たちと眺める。

土佐市内は仁淀川から引いた水が豊富に流れ心地よい。野中兼山が開発した水路もある。
種間寺で靴下を脱いで休んでいる浜松のMさんに憲法論議を持ちかける。専門学校時代小平にいたことがあるという彼は10代とは思えないのだが、戦争について考えたことがないという。しかし、まじめにわたしの話に耳を傾けてくれた。(後日手紙を頂き、賛同金が届いた)
春野町はビニールハウスの連続である。野菜を主に作っているという。季節破壊産業である。中にはトマト、西瓜、ミョウガなどが季節にお構いなく作られ出荷されている。トマトといえば太陽の恵みという印象があるが、日光のあたらないハウスで石油を燃やした熱で育っている。
雪蹊寺から禅師峰寺へのルートはフェリーに乗る。県営で無料である。竹林寺を当日中に打つのは微妙な時刻になった。山の上に塔が見えるが納経時間の5時までに登らなければならない。急ぎ足で歩いていると、自転車に乗った中年の男性が「わしが最短ルートを教えてやる」と登山口まで案内してくれた。おかげで時間内に納経を済ますことができた。善楽寺への遍路みちをタクシーの運転手に聞いたが、暗いしマムシが出るから登り口のトンネルまで戻るのが一番近いと教えられ、助言に従った。
宿は厚生年金健康福祉センターサンピア高知に予約済みである。民宿に比べると宿泊料はやや高いが、たまには良い。
フェリーから浦戸大橋を見る
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第43日(1月24日〔水〕)