○ 集中欲求 『病気になるのは、その人が他人の注意を引きたいと思っているから。 無意識のうちに他人から注目されたいと願うから、身体は病気になる』 野口整体の本を読んでいて、そういう言葉に出会いました。 「そうかもしれないなぁ」とすんなり思います。 少なくとも、わたしの場合はそうだったのかもしれない…と感じます。 要するに、病気とは身体の無言のアピールなのではないか。 「わたしはもう動けない。もう頑張りたくない。だから動かなくなってしまえ」 と、身体が意志に反して(でも本当は深層意識のとおりに)動かなくなってしまう…という。 わたしが慢性疲労症候群だとわかる前、わたしの自己否定感はピークに達していました。 入った高校にはどこかで馴染めず、いつも誰かの期待を裏切っているような気がしていたし、誰かの期待通りでないわたしが嫌いでした。 人の輪の中にすんなり入っていくことも出来なくて、そんな自分も嫌でした。 「昔はちゃんと出来ていたのに。いつの間にそんな当たり前のことが出来なくなっちゃったんだろう。きっとわたしには、とても肝心な『何か』が足りないんだ。だから普通の子みたいに生きることが出来ないんだ。自分はなんてダメなんだろう」 数は少ないけれど友達はいました。クラスでも苛められたりはしませんでした。でもなんだか、いつも居心地が悪かった。自分の足りなさを自覚していたから、クラスメイトとどう接したらいいのかがわからなくて、びくびくしていました。 何人かの女子には、あからさまに「見下した」態度をとられていた…と思います。 でもわたしは、その子たちに対して怒る気にも、恨む気にもなれませんでした。 「そんな風に思われてしまうわたしがいけないんだ…」と思っていました。 こう書くとまるで「とっても優しい子」のようですが、違います。それは優しさではなくて、怒りを変換して自分に向けて、自分を責めていただけ。自分に対して自信がなさ過ぎました。自尊心が持てなかったのです。「なんてかわいそうなわたし」とさえ思えませんでした。 自分がそんな風に扱われることも、当たり前だと思っていたのです。 話している相手が誰であっても、いつもびくびくしていました。 こんなことを言って変に思われないだろうか?この返答は相手を満足させるんだろうか?と。 誰かを少し不快な思いにさせただけで、自分の全てが否定されたような気持ちになりました。 わたしはもっともっと頑張って、みんなに受け入れられるような、期待されるとおりのわたしにならなくちゃ。そう思いました。 だから高校2年生になった頃は、それまでで一番勉強を頑張りました。もともと怠け者で勉強も嫌いだったけど、そのときばかりは異常なくらい真面目でした。 高校1年生の冬あたりからすでに体調のおかしさを感じていて、その頃には授業中に頭がガンガンと脈打つたびに痛くて、涙が出るくらいになっていました。自転車も漕ぎにくいし、なんだか感情の波が消えてしまったみたいにいつも頭がぼーっとしていて、うまく笑えない感じでした。顔の筋肉を動かすのに、すごく力が要るのです。 それでも、そんな全てを無視していました。 気合で乗り切れるはずだと思いました。 周りの誰もが、勉強だってなんだって頑張っているのだから、わたしに出来ないはずはない。 自己嫌悪から逃れたくて、懸命に勉強しました。 その頃のテストはそれまでで一番出来が良く、当時受けた模試の成績もわたしにしては立派なもので、担任の先生にも誉められた覚えがあります。 わたしにもやればできる。 もっともっと頑張れば、もっともっとできるはず。 大丈夫、わたしはまだできる。できるはず。 そう思う反面で、「本当にこれがずっと続いていくのか?」という虚無感。 日に日に重くなっていく手足。朝起き上がるのが辛くて、自転車を漕ぐのもどんどん重労働になっていき、食欲もなくなっていく。 それでも頑張っていればなんとかなるかも、とすがりつくように思っていました。 でもそういう気持ちとは反対に、急加速で身体は動かなくなっていきます。 夏休みに入ったある日、補習のために登校していた途中で、わたしはとうとう自転車で坂道が上れなくなり、泣きながら家に帰ります。 それからしばらく、休養をとることになりました。 そして自分が「慢性疲労症候群」だとわかり、それがきっかけでマクロビオティックを始めます。 驚いたのは、「陰性体質の人」の特徴にあまりにも自分が当てはまること。 甘いものが大好きで、朝起きられない。疲れやすい。 忘れ物や落し物をしやすい、涙もろい、自己嫌悪に陥りやすい。 そして「犠牲者になりやすい」…とありました。 「まさか、食事でそんなことまで決まるわけないじゃん!」と最初は胡散臭く思いました。 でも。 世の中には、わたしほど自己嫌悪を感じずに生きている人もいるみたいだ、と思っていました。わたしは理解できないけれど、確実にそういう世界があるらしい。 それはわたしよりも優れているから自己嫌悪を感じなくて済む…というわけではなくて、感じ方やものごとの受け止め方が、決定的に違うからなのかもしれない。 じゃあ、もしかしたら自分も、そういう世界を垣間見ることができるのかもしれない。 食事を変えて、体質を変えることで、わたしの考え方や意識も変化していくのかもしれない。 そうしたら、今のわたしとは違う、重苦しい身体を脱いで新しい感じ方の出来るわたしと出会える日が、もしかしたら来るのかもしれない。 行動力もなく自信もなく、ただじっと座っていることしか出来ないわたしでしたが、それでもマクロビオティックにこだわりつづけたのは、そういう気持ちが根底にあったからでした。 そして何度も、どんどん健康へと近づくように変化していく自分自身を発見しました。 その度に、「本当だったんだ…」と食べ物の力に驚かされました。 でもどこかで、わたしはマクロビオティックにすがり続けていた気がします。 マクロビオティックをしているからこそ、普通の人のように動けるようになったんだ…という前提があった上に、以前からの「頑張らなければ良くなれない」という気持ちが自分の中にしがみついていました。 「厳格にマクロビオティックをしなければ、わたしはダメになってしまう」。 完璧主義すぎるマクロビオティックでした。 少しでもお砂糖や乳製品が入っているもの、ほんの少量のお肉もお魚も、揚げ物でさえ、一口でも食べることを拒んだり。少食にこだわり、朝ご飯を食べてしまったり(マクロビでは摂らなくても良いとされている)、満腹に食べてしまった後には自分を責めてしまったり。 そういう時期もありました。 家族が自分の食べないものを食べていると「それは良くないよ」と口出しをしたりして、「あんたと食事をしてると楽しくない!」という母親と喧嘩の絶えない時期もありました。 ちなみにその頃は、もっとも低血糖症のひどい時期でした。 (低血糖症は陽性の病気。陽性が極端に強くなりすぎると、人は他人に対して不満を持ちやすくなったり、完璧主義になったりすると言われます) 「このラインを外れたら、わたしはダメになってしまう」 そう思っていました。頑張っていない限りは、自分で自分を信じることが出来ませんでした。 でも、自分が自分を責めていることには気がついていませんでした。 「わたしみたいな人間は、頑張ってなんとか人並み、それが当たり前」と思っていたから。 気がついたのは友達との会話の中でした。 「わたし、低血糖のせいですぐに体調が悪くなって、この間もバイトを休んじゃうし…あー、もうホントにすっごい腹が立つよ」 と何気なく話したところ、友達の返事は 「えっ、自分の体調が悪いのに腹を立てちゃうの?」というもの。 ごく普通の返答でしたが、目が覚めるような気持ちでした。 「そうだよね、別に怒るところではないよね。体調が悪かったら、回復するために休まなくちゃいけないんだし…」 と返事をしながら、呆然とした気持ちでした。 自分を休ませてあげることができない自分に気がつきました。 他人と比べて何かをしているわけでもない、体力があるわけでもない。だから他人以上に頑張らなくちゃいけないのに、根性を出せない自分に腹を立てていました。 でもそうやって自分に対して怒る必要はないのかもしれない。 自分の身体が辛がっているときこそ、自分を労わってあげるという視点があってもいいのかもしれない。 友達にすればほんとうに何気ない言葉だったのだと思うけれど、わたしはその日から自分の中の自己嫌悪感について、深く考えるようになりました。 その会話から1年以上。 「完璧な自分でなくてもいい」と思うようになったのは、ほんとうについ最近のこと。そして今でもその考えが完全に自分のものになったとは思えないけど、その方向に向かっているのではないかと思います。 いろんな人が背中を押してくれたお陰で何かに挑戦したり、人と出会ったりする中で、自信をつけるというよりは「別に上手いことできなくても、どうってことない。人の期待に応えすぎなくてもいいんだ」と思えるようになりました。それでも自分を厚かましいくらい認めてあげることができるような気がしました。 不思議なことに、そう思うことができるようになるにつれて、低血糖症がだんだんと良くなってきているのに気がつきました。しつこい固定観念(陽性)がとれたからなのかもしれません。 気がつくとわたしは、昔望んでいた「重苦しい身体を脱いで、新しい感じ方の出来る自分」に近づいてきている…と思います。 すがるような気持ちで、マクロビオティックをしていた時期。 すがるような気持ちで、ホメオパシーのレメディーを飲んでいた時期。 それは、自分の自信のなさの表れだったんだと思います。 マクロビオティックを始めた頃は、「健康になること」=「完璧超人になること」だと思っていました。怒らず、疲れず、つねに笑顔でぶれない人。そんな人になれば自分を嫌いにならずに済むのだと思ってました。そのために修行みたいに厳格なマクロビオティックをしていました。「悟りを開く」みたいに何かをつかみとれば、自分のできる極限の高みにまでのぼれば、そういう人になれるのではないかと思っていたから。 でも、違ったのです。 「本書を読む進め、マクロビオティックを実践し始めるにつれて、『いつになったら健康を享受できるであろうか』と自問することになるであろう。 健康とは、動的で絶えず変化し続ける過程であり、1ヵ所にとどまることもなければ、健康と病気を分け隔てる境界線があるわけではない。(中略) 完璧な健康状態というものは存在せず、ただ、絶え間なく変化し続ける状態や環境に完璧に適応している状態があるにすぎない。」 (「THEマクロビオティック」 九司道夫 マガジンハウス刊) 書いてあったのです。ちゃんと。九司先生の本に。 完璧な健康状態はないって。常に流動的であるのが人間なんだって。 当たり前のことなのに、ずーっと自分の内側に引きこもっていたわたしは、そんなこともわかっていなかったのでした。 高校生の頃のわたしは、自己否定の海に沈みこみながらも、誰かに自分を見て欲しくて仕方なかったのだと思います。その「集中欲求」から、病気を引き起こさざるを得なかったのだと思います。 でも、病気は苦労とともにいろいろな体験を引き連れてきてくれました。 自己嫌悪が強いのも「面倒くさいなぁ」と思うけど、それがなければ見えなかったものも見ることが出来ました。お陰で今のわたしは、うざいくらい(笑)自己嫌悪の強い人の気持ちがなんとなくわかります。 自分がそうだから。うんざりするくらい、自分の目でそれを見つめ続けてきたから。 そう思うと、どんな人であっても、その人しか出来ない体験を重ねてきているという意味で、特別なのだと思います。そしてその間には、なんの優劣もないのです。 だから、わたしはわたしの体験を積み重ねていくだけ。 そして絶え間なく変化し続ける環境に、適応していくだけ。 誰かに注目して欲しいから、誰かを注目させたいから病気になる。 それは、今現在病気の人にとっては不愉快な考え方だと思います。たぶん、当時のわたしが聞いたら「わたしだってなりたくてこんな病気になったんじゃない!」って怒ると思います。だって、「自分で自分を病気にしてる」と言われるようなもの、ですから。 でも、自分の食べ方が、生き方が、選択の仕方が、病気を作り出しているのだと、わたしは思っています。少なくとも自分自身に関しては間違いないと思います。 病気になることは悪いことではありません。罰でもありません。 それは、結果なのだと思います。 例えば、癌になるくらい不自然な生活を重ねて頑張っている人でも、死ぬときに「それでも自分は立派な仕事が出来た」と思えるのならば、そのひとは幸福なのだと思います。 だから、病気にならない生き方を選ぶかどうかは、そのひとの自由なのだと思います。 わたしは健康になることを望んだ。それだけのことなのです。 集中(注目)されたいから、自分が自分を病気にしている。 もちろん全ての病気がそうなのだとは言いません。あくまでわたしの場合、の話です。 けれど、「もし、本当はそうだとしたら?」という仮定の下で考えることは 自分を見つめ直すきっかけになってくれる言葉だと思うのです。 今のわたしは、自分の病気の種を見つけ始めている気がしています。 |