競馬・乗馬・馬文化 しげさんの馬三昧

しげさん馬コラム

馬に馬鹿なくて人に馬鹿あり

2007年 5月27日 フサイチの慢心
2004年 1月 1日 騎手の年間最多勝更新から見えるもの
2003年10月17日 クリフジも三冠馬だ
2002年 5月26日 ホースマンに傘はタブー
2000年 9月 2日 騎手名の表記はフルネームで
1999年11月 7日 相手国の国旗、国歌に敬意を
1999年10月16日 清涼感漂う、武豊騎手
1999年 9月 5日 なぜオグリ? 新潟競馬場の「ふみカード」
1999年 9月 5日 馬は枠で走らない

 

フサイチの慢心 (2007.5.27)

関口房朗氏のパフォーマンス、旺盛なサービス精神は極めて陽気なものであり、JRAのファン獲得にも一役かっているのは紛れもない事実である。

さて、皇太子殿下の行啓、安倍首相の来場、そして64年振りの牝馬ウオッカの優勝と話題に事欠かなかった第74回日本ダービーであるが、断然人気はフサイチホウオーであった。しかし、極度のイレコミが影響してか、フサイチホウオーは馬群に沈んでしまった。この敗因はフサイチ軍団の慢心ではなかったかと思う。この単勝1.6倍のオーナー関口房朗氏は亀田3兄弟を引き連れてパドックに現れた。最大限この行為は許すとしても、パドックでの馬の周回の終わり間近、あろうことか関口氏、亀田3兄弟、松田国英調教師、安藤勝己騎手が揃って記念撮影に納まったのである。結果、「止まれぇ〜」の合図後の馬体・馬装確認に合わず、調教師、騎手は走ってフサイチホウオーに向かった。極限の状態に仕上げられ、ダービー当日を迎えた馬の精神状態はそれでなくても昂っている。そのうえ、興奮状態を加速させる大賑わいのパドック。調教師や騎手は如何に愛馬を落ち着かせるかに専念しなければいけなかった筈である。競馬はショーではない。真剣勝負のスポーツである。生き物を扱うスポーツである。まさしく慢心ではなかったであろうか?

己の慢心で己の馬が負けるのは自己責任であるが、百億円を越す馬券が投じられた人気馬に対し、最大限の能力を発揮させる努力を僅かでも怠ることは極めて問題である。

一部の有力馬主は人気ジョッキーをタニマチの特権の如く宴席に連れまわし、一方、騎手、調教師も有力馬を配する馬主の機嫌を損なわないことに神経をすり減らしている。しかし、お互い守るべき線があることは弁(わきま)えなければならない。騎手、厩舎関係者にとっては「勝つことに徹する」ことが、馬主との信頼関係は勿論、競馬というシステムを存続させる最大の鍵であることを、今一度心に刻むべきであろう。

     

騎手の表情はレースを前にした勝負師の顔でなかった。      

 

◆ 騎手の年間最多勝更新から見えるもの (2004.1.1)

2003年は、サンデーサイレンス、社台、藤沢和雄、武豊といった勝ち組が更に力を伸ばし、保守的な競馬界においても優勝劣敗がいよいよ顕著になってきた。騎手でいえば、武豊騎手が年間200勝の金字塔を打ち立てた。厩舎制度における騎手の位置付けが旧来からの徒弟制度に変わり、フリー化が一般化したことも背景にあるが、素晴らしい記録であることには違いない。ところで、騎手の年間最多勝更新の歴史を見るとあることに気が付いた。先ずは昭和33年の野平祐二の121勝、この年は天皇賞男との異名をもつ名手保田隆芳がハクチカラとともに我が国競馬界にとって初の海外遠征をした年である。保田を師と仰ぐ野平祐二がまさに燃えたのである。野平祐二は翌年、豪州の国際レースで優勝、その後もグローバルに活躍することになる。この121勝は、昭和52年、天才福永洋一の126勝によって破られた。福永洋一は昭和45年からリーディングジョッキーとなっていたが、この昭和45年は、その保田隆芳が引退した年である。因みに、保田は先の海外(米国)遠征時にモンキー乗りをマスターし、帰国後、日本に一大旋風を巻き起こした。そして、昭和62年、岡部幸雄が138勝をあげたが、この年は武豊がデビューした年である。そして、昨2003年、笠松の安藤勝己が多くの障壁を乗り越えJRAに移籍した年である。筆者の思い込みがあるかもしれないが、この様に見て行くと、新しい血との刺激が、進化を導いていると言っても過言ではないであろう。

今年から調教師のメリット制が実施されるが、一般社会からみれば全くもって手緩い制度である。売上減少、国際化、新人騎手育成、地方競馬、馬産地問題など頭が痛くなる程の沢山の課題を抱えているが、競争原理に則り、身近な利害を廃し、本質的な施策を是非進めて貰いたいものである。

2004年は申歳である。猿と馬に関わる言葉に「意馬心猿(いばしんえん)」というのがある。馬が好き勝手に走り廻り、猿が騒ぎ立てる様子を表したもので、まるで今の世の中の様に、無秩序で抑えが効かない状態を言う。一方「猿と絵馬」という言葉がある。これは、いつの頃か、猿を馬屋の守護とする信仰が生まれたが、そこから出た、取り合わせが良く、しっくり上手くいくものの例えだ。不安と混迷が続く世の中であるが、今年は何としても「猿と絵馬」といきたいものである。

 

クリフジも三冠馬だ (2003.10.17)

いよいよ秋競馬も佳境にはいってきた。今週はスティルインラブが、来週はネオユニヴァースが三冠に挑戦する。牡馬牝馬ともども三冠馬がでることは、JRA史上初とのことであるが、今一つ盛り上がりに欠けている。スティルインラブにはアドマイヤグルーヴのような華が無く、ネオユニヴァースは名手デムーロの腕によるところが少なくないからだろうか。

ところで、本日(10月17日)付朝刊紙にJRAが全面広告を出稿した。制作は日本経済新聞社広告局である。そのなかで、今までに誕生した三冠馬は牝馬を含め6頭である、という趣旨のコラムが載せられていた。これについては疑問が残る。確かに牡馬の三冠馬は、セントライト、シンザン、ミスターシービー、シンボリルドルフ、ナリタブライアンの5頭である。また牝馬三冠馬はメジロラモーヌの1頭だけである。だからと言って、三冠馬は6頭だけではない。それは昭和15年生まれの牝馬クリフジの存在である。クリフジは、日本ダービー、オークス、菊花賞の3つのクラシックレースを制覇している。それも無敗で。明らか三冠馬であると思うが、如何なものであろうか。

因みに、JRAミレニアムキャンペーンにおける「20世紀の名馬100」においても、クリフジは選出されていない。JRAは事実としての記録をもっと大切にして貰いたい。

(本件の趣旨;10月17日 JRAホームページに投稿)

 

ホースマンに傘はタブー (2002.5.26)

第69回日本ダービーに「内閣総理大臣賞」の授与プレゼンターとして小泉純一郎氏首相が来場された。競馬場への来場は3回目だそうである。なお、現職首相のダービー観戦は昭和33年のダイゴホマレが勝った時の岸信介首相以来実に44年振りとのことである。因みに自民党総裁と競馬と言えば、旧農林省のドン故河野一郎氏の息子であり、那須野牧場とも関わりの深い河野洋平氏、愛馬にマキノホープやマキノスガタなど愛嬢真紀子氏の名前を冠名にしていた故田中角栄氏が思い出される。

さて、ダービー発走の直前、昭和42年、アサデンコウの勝ったダービーを思い出させるように、空はにわかに暗い雲に覆われていった。レース中は雨も粋な計らいで遠慮してくれたが、表彰式を迎える少し前から雷鳴を伴う強い雨となった。まるで荒れ模様の今の日本の政治経済を象徴するかの様に。

さて、表彰式、雨をものともせず颯爽とダービーハットをかぶり、馬場に登場し愛馬に寄り添う谷水オーナー、ヘルメットをとり雨に濡れながらも満面笑みの武豊騎手。しかし、そこには傘を持った何人もの競馬会職員と思われる人たちが優勝関係者やプレゼンターの廻りにいた。そして、なんとその中の1人は口取りの時、傘を開いて後ろに立っているではないか。人間だけの表彰式なら、傘は許されても、馬がいればホースマンに傘はタブーである。優勝関係者は誰も傘は欲していなかった筈だ。競馬会としては、小泉首相や監督官庁の武部農相を雨で濡らす訳にはいかないから、傘を準備することになったのであろうが、口取りに傘とは何をか言わんやである。その上、小泉首相や武部農相は口取りには参加していないのだから。

さて小泉首相、貴乃花優勝時の「感動した」の名台詞はなかったが、鈴木淑子さんのインタビューに応えて、競馬ファンに「夢と希望とロマンを」との言葉を残した。暫くして、東の空には2本の虹が現れた。この虹が、日本経済、そして競馬界に光明を運ぶ架け橋になってくれれば嬉しいのだが・・・・・・。

 

騎手名の表記はフルネームで (2000.9.2)

コンタクトが8月24日に「北村宏」騎手(本名;北村宏司)を背に横綱相撲で圧勝、3勝目をあげた。その「北村宏」騎手、2年前の障害戦で落馬負傷し重症を負った「北村卓」騎手が8月31日付で引退したことにに伴い、9月9日からの表記名は「北村」騎手となる。

騎手名の表示は従来より、同時期に同姓がいない場合は苗字のみ、同姓がいる場合は名前の頭文字、それでも一緒の場合は名前の二文字目の一文字を苗字のあとにつけて区別するようにしている。競走馬名は色々な縛りがあるのにも関わらず、この騎手名の表示は甚だ感心しない取り決めである。特に、競馬界は世襲的な繋がりも依然として多く存在し、その結果、同姓が非常に多い世界だけに尚更である。

例えば、過去の競走成績を見て、騎手「武」は豊騎手なのか、お父さんなのか叔父さんなのか?
騎手「柴田」は政人騎手なのか政見騎手なのか、善臣騎手なのか、弘騎手もいた。はたまた双子兄弟?
政人騎手でいえば、「柴田人」、「柴田」、「柴田政」の3通りの表示があったと記憶している。若いファンのなかには、「柴田人」と「柴田政」は別人と思っている人がいても不思議はない。過去の競走成績を見ていても、騎手名に関しては記録の意味を持たなくなってしまっていることもある。

競馬は「記憶のスポーツ」ともいわれるが、記憶が及ばない長い歴史のある「記録のスポーツ」でもある。地方競馬との交流も増え、地方競馬の騎手の騎乗機会も格段に増えてきている。是非とも騎手名のフルネームでの表記を実施して貰いたい。出来ることなら過去に遡って。そして、勿論、調教師名も。変更時期は早いにこしたことは無いが、馬齢表記が変わる2001年1月が良い機会だと思う。

(本件の趣旨;9月7日 JRAホームページに投稿)

 

 

相手国の国旗、国歌に敬意を (1999.11.7)

昨日、マジックシンガーがアルゼンチン共和国杯に出走した。今回はパドックでの発汗が激しく、調子も今イチのようで16着に敗退したが、ともかく45戦目も無事ゴールした。森調教師をはじめ関係者の努力に敬意を示したい。

このアルゼンチン共和国杯、1963年に日本とアルゼンチンの友好と親善の一環として、アルゼンチン・ジョッキークラブから優勝カップの寄贈を受け、アルゼンチン・ジョッキークラブ・カップ競走として施行された大変歴史あるレースである。1975年にアルゼンチンの競馬がジョッキークラブから国の管轄に移管されたことに伴い、名称は現在のアルゼンチン共和国杯となっている。

さて、このレースに関しチョット気になることがあった。それは、レース当日の昼休み、アルゼンチン国旗が掲揚され、アルゼンチン国歌が場内に流された時である。ターフビジョンにはアルゼンチン共和国の関係者の方々が厳粛に国歌を聴きながら、国旗を見つめる姿が移し出されている。実はその時、馬場内では芝コースの整備が行われており、何人もの整備員が歩きながらコース内のチェックを行っていた。ダートコースでは、砂を均す整備車がスタンド前を通過して行った。スタンドから見ている私にとっては、それは異様な光景に映った。わが国においては、日の丸・君が代に対して未だ一部の抵抗もあるようだが、国際関係においては、特にこのような、親善行事によるセレモニーにおいては国旗・国歌に敬意を評するのは相手国に対する最小限のマナーのひとつではないだろうか?馬場の整備が必要なことは十分わかる。しかし、レース間隔があく昼休みにおける、ほんの数分のことである。全員起立せよ、とは言わないが、馬場整備は是非控えて欲しい。ジャパンカップを前にして、JRAに一考願いたい。

(本件の趣旨;11月7日 JRAホームページに投稿)

 

清涼感漂う、武豊騎手 (1999.10.16)

今日、マジックシンガーが約5ヵ月振りにレースに復帰した。騎手は11戦振りに武豊騎手である。武豊騎手とのコンビは今回で11戦目であるが、そのうち交流レースが川崎、船橋、笠松、札幌、名古屋と5戦ある。当時の地方のスポーツ新聞、競馬新聞を振り返ると、その見出しは馬の名前ではなく、「武豊来たる」「武豊○○競馬場に初見参」の活字が大きく踊っている。

昨日15日、所用で山形に行って来た。山形には上山競馬場があり、19日には交流重賞「さくらんぼ記念」が行われ、武豊騎手も騎乗することになっている。さて、昨日の夕刻(から深夜まで)、街に出たが、そこでの話題に「今度、武豊が来るのよ」と言った会話があちこちで聞かれた。確かに武豊騎手が騎乗すると、入場者は増え、当然、売上にも貢献するため、関係者は武豊騎手の参戦を願う訳だし、馬主にしても超一流ジョッキーに騎乗して貰いたい訳ではあるが、昨日の山形市民の反応には驚いた。競馬をやらない人までが、「武豊が来るのよ」「武豊が来てくれるのよ」なのである。そして、武豊という言葉には、スタージョッキーという側面に加え人間性が加味されている台詞であった。地方競馬の存続、経営問題が各地で議論されているが、また、JRAも売上の減少に頭を悩ませているが、武豊騎手の世界を股にかけた行動の中での日本全国への遠征をはじめとする様々な行動、騎乗すれば少なからぬ身上金は手に入る訳であるが、それはそれとして、彼のここ数年の行動は芯から競馬のことを考えているとしか思えない。スタージョッキーでありながら、常にファンを意識して、と言うより、ファンあっての競馬ということを謙虚に自覚している御座なりではない本質的なファンサービス。レースへの取り組み。インタビューの受応えも清清しい。自分さえ良ければいい、実力が全てといった個人主義、自己中心的な風潮が社会全体に蔓延るなかで、武豊騎手の競馬界全体を見極めた行動はファンにも一服の清涼感を与えてくれる。競馬界にこのような人物がいることを嬉しく思う。

 

なぜオグリ? 新潟競馬場の「ふみカード」 (1999.9.5)

昭和40年に関屋から移転以来、慣れ親しんできた右回りの新潟競馬場は今日をもって終了する。2001年夏には「日本一長い直線658bの左回り芝コース」とともに、「日本初の芝の1000bの直線コース」が誕生する。スプリンターに対する番組も手が加えられるとのことで、今から楽しみである。

さて、本題。新潟競馬場開催日には、馬場内に郵便局が店を出し、記念切手などを売っている。その中に新潟競馬開催記念ふみカードがある。オグリキャップ、メジロマックイーン、ナリタブライアンがデザインされた3枚組で、立派な台紙がついて3000円である。特券3枚分(古いなぁ)ではあるが、使用済みでよければ年賀状でも買う時に使用すれば良いわけで、誠に嬉しい馬グッズである。

しかし、ちょっと考えると、何故、オグリキャップ、メジロマックイーン、ナリタブライアンなのだろうか?この3頭は新潟競馬場では走っていないのである。この3頭は近年の実力を備えた人気馬であることに間違いはない。殿堂馬にもなっている。しかし、「新潟競馬開催ふみカード」なのだから新潟競馬場にゆかりの馬を入れるべきでなかったか? 新潟競馬場の北陸Sをレコードで優勝、関越Sでその生命を絶たった我が出資馬プロストライン(「悲運のダート王」 根岸S(GV)優勝、フェブラリーS(GU)2着)を載せろとは言わないが、新潟では、現在グレードレースが4つ(障害を含めると5つ)行われており、また、シンボリルドルフのデビューの地でもある。発行は郵便局(郵政省)となっているが、JRAも関与している筈である。折角の好企画だけに残念でならない。上辺だけでない、深みのある文化とするためにも、細かなところにまで気を遣って貰いたい。

 

馬は枠で走らない (1999.9.5)

社台グループの発行する「サラブレッド」9月号で吉田照哉氏が「枠番による帽子の色分けは必要か」ということで提言を行っている。勝負服同様、帽色も馬主ごとのデザインにしたらどうか、というものである。手間もお金もさほどかからず、また、脱ギャンブル志向にもつながるのではないかとの内容である。同一馬主の馬が2頭以上出走した時は、やや見分け難いという問題点、枠による色別というシンプルかつ明快な日本ならではの文化も捨てがたいが、興味深い提言である。

さて、本題。現在、8頭立て以下のレースでは枠番連勝のみで馬番連勝は売られていない。1991年に馬番連勝が導入される際、JRAは当面?馬券の主役は従来通り枠番連勝だろうと考え、また、ギャンブル性の助長のイメージを危惧し、まず枠番ありきとしたと言われている。しかし、勝ち馬を当てるより、枠を当てる方がよっぽどギャンブル性が高い。的中率(オッズ)の高低とギャンブル性とは全く違う話である。1/2の確立で当たる丁半博打と16頭立てで120通りの組合せがある馬番連勝とでどちらがギャンブル性が高いであろうか。3倍の銀行馬券をを100万円買うのと、万馬券を100円買うのとでは? そもそも競馬は枠が走るのではなく馬が走るのだから。以前の競馬(レース)では殆どのファンは帽子の色しか見ていなかった。赤とか、青とかピンクとか。しかし、現在は勝負服は勿論、毛色や白斑も見るようになってきている。まさに馬を見ているのである。馬番連勝は枠番連勝にくらべ遥かに競馬のスポーツ性を高めるものである。ワイド馬券発売を機に、枠番連勝は9頭立て以上を対象とし、是非とも全レースで馬番連勝を発売して貰いたい。

(注)2005年1月より、8頭立て以下のレースでは枠番連勝は発売されず、全て馬番となった。